建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

キリスト者の復活4  第一コリント15:53~54

2000-32(2000/9/10)

キリスト者の復活4  第一コリント15:53~54

 「というのはこの過ぎ行くものは不滅のものを着、またこの死ぬべきものが不死なるものを着《なければならない》からである。しかしこの過ぎ行くものが不滅のものを着、この死ぬべきものが不死なるものを着るとすれば、《その時には》、書かれているみ言葉が成就される。『死は勝利に飲みつくされてしまった』」。

 復活の出来事は、「不滅のもの、不死なるものを上から着る」出来事である。この出来事は《神的な摂理のもとにある》とパウロは述べている。それを示している用語が「なければならない・デイ」(必ずや着ることになる)である。
 この用語はイエスのいわゆる受難予告にも出てくる、マタイ16:21「この時からイエスは自分がエルサレムに行って、長老ら、祭司長ら、律法学者らから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目に復活《しなければならない》ことを弟子たちに示しはじめられた」(17:22、20:18)。黙示録1:1、4:1「まもなく起こるべきこと」すなわち、この出来事が「神的定め、摂理」のもとにあるのみならず、神ご自身がイニシアティブをとるみ業であることを意味している。イエスの受難、復活において、さらにキリスト者が天的衣服・霊の体を着せられる出来事においても、ある意味で神の姿は隠されているように映るが、神のみ心をはっきり示しているのがこの用語である。
 また原文の「…ならば、その時には」は、この出来事が前代未聞の全宇宙的なそれであることを強調している。内容的には、死ぬべきものと不死なるものとの対立が《最後の敵である死の滅亡》(26節)という神の行為と関連づけられている。
 「着る」のは「不滅の、不死の《天的な衣服》」であり、同時に「キリスト者の将来的なありよう」をも示している、コンツェルマン注解。
 バルトの解釈では、この天的な衣服を着せられる出来事は「生がもはや《肉と血》とではなく、死がもはや朽ち去るもの(50節)ではなく、むしろ両者が神の権能のみ手にあり、今は隠されている《霊の体》が顕わとなり、今顕に見える《魂の体》が《霊の体》を上から着せられる(第二コリ5:1)」出来事である。
 そしてこの「死ぬべきものが不死なものを着る」出来事は、ここでは「死の滅亡」と関連づけられている。
 54節。まず問題となる旧約聖書の箇所は、第一に、へブル語聖書のイザヤ25:8「主は永遠に死を滅ぼされる」(周知のようにここはイザヤ黙示録の一部)。パウロの引用はこれとも70人訳とも異なっている。「死は勝利に飲みつくされた」。「食いつくされる、飲みつくされる」という用語は、第二コリ5:4「死ぬべきものが生命に飲みつくされるためである」にもある。
 ルタ一の解釈「『死は勝利に飲みつくされてしまった』、このことはまだ起きてはいない。しかし起こりつつある。やがてここに書かれているとおりになるであろう。『勝利』とはキリストの復活である。われわれにおいてはいまだ実現していないが、勝利は確かにある。洗礼と福音とによってそれはわれわれのものとなる。…死はわれわれを屈伏させわれわれに勝利し、われわれを地中に送り込む。にもかかわらずゲームは逆転する。われわれを殺し、埋葬する死は、再び殺し葬ることはない。われわれは生命の中に、生命はわれわれの中にとどまり、反対に死を追放する。今死は主人であり、支配者であるが、《その時には》死は駆逐され、葬られてしまう。特に洗礼を受け、キリストを信じる人々にとってはこうなるのである。われわれの力によってそうなるのではなく、われわれに与えられたキリストの勝利によってそうなるのである。…」「第一コリント一五章講解」徳善訳。