建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

キリスト者の復活6  第一コリント15:56~57

2000-34(2000/9/24)

キリスト者の復活6  第一コリント15:56~57

 「死の刺は罪である。しかし罪の力は律法である。しかし神に感謝せよ、私たちの主イエス・キリストをとおして私たちに勝利を与えたもう神に」

 15:50節以下の、注解書は、パウロが展開しているテーマに迫ったものは少ないようだ、リーツマン、コンツェルマンなど。ルターの「講解」を先にみたが、パウロに肉薄している感じがする。この《死の克服と新しい霊の体の授与》のテーマは、新約学的注解ではなく、やはり《教義学的講解》によらないと把握できないと感じられる。バルトの講解をみたい。
 「実際人生にまとわりついている死に《停まれ》が命じられるためには[バルトはルタ一の講解の、罪と律法と死に対する復活のキリストの言葉『立ち止まれ。おまえはもはや私を恐れさせ、殺し、裁き、埋葬することはない』をふまえた引用的表現をした、強調バルト以下同じ]人間に最後終局的に目標を差しこむ神の奇跡が必要である。《そこからして》死が嘲笑されうるし、嘲笑されねばならない。
 この最後のものの《此岸にある》いずれの場所から見ても、死がそれに対して《いかなる》抵抗もありえぬ勝利者であり、かつそうであり続ける。また死がそれの前からいかなる逃亡もありえぬケントロン(毒の刺)であり、かついつまでもそうであり続ける。《死とはいまだ克服されざる生と死滅との二元論》ということである。…何が《復活の現実》を停滞させているのか(56節)、何がわれわれを54節の[霊的体を着る]『その時には』から分離しているのか、何がわれわれが《そこから》生きているかのように、《約束の言葉》[54節の『しるされた言葉』]を先取りするのを禁止しかつ妨げているのであろうかを、われわれはちゃんと知つている。すなわち『死の《刺》は罪である』(56節)ということをである。われわれはアダムの子らとして彼の堕落に、彼の神への反逆に全実存をもって参与しているがゆえに、またわれわれの現存在だけでなく、原初にわれわれの意志が、それをもってわれわれが神との差異性においてある自己自身を肯定する意志が(ロマ5:12以下『一人の人をとおして罪が世に入ってきたように、罪をとおして死が入ってきた。またこうして死がすべての人間に拡がった。すべての者が罪を犯したからだ。…アダムからモーセまで、アダムと同じような仕方で定められた戒めへの違反をとおして罪を犯さなかった人々の上にも、罪はその支配をなしとげた。このアダムは来たるべき人間の型である』)、したがってわれわれの行為としてのわれわれの生活があの二元論を基礎づけていているがゆえに、《それゆえに》死が勝利するのだ。それゆえに死の刺が突き刺さり、《それゆえに》われわれは《生と死滅》との上部にあるゼロ点には立たないのだ。
 《罪の力》はしかし次の一事に基づいている、すなわち罪が(ロマ7:7以下)ほかならぬわれわれの神関係、神に対する人間の対立関係を、律法を、わがものとしたということにである。言い換えると、まさに人間存在の頂上においてこそ、『罪が善なるものをとおして私に死をつくり出した』(ロマ7:13)、人間を違反者たらしめるということである。われわれの現存在の内部においては事態はこうなっており、それゆえにあの『その時には』は現実的に一つの《かの時とかしこ》であって、決して今とここではない、復活の現実は排他的に《神の》真理であり、キリスト教の絶対性は排他的に神の絶対性のみである。
 われわれに何が残っているのか。それは『しかし神に感謝せよ』ということだけである(57節。これはロマ7:25との完全な並行句だ)。『われわれの主イエス・キリストをとおして』(57節)神はわれわれに勝利を与えたもう。『勝利を与えたもう方に』という現在形に注意せよ。神の賜物としての勝利、《復活の現実》は《現在なのだ》。神の賜物としてこの復活の現実はわれわれに語りかけられ、有効に通用する言葉であり、忘れえぬ、われわれの現存在の弁証法の中に引きおろすことのできない、局限されえぬ、弱めることのできない、疑問をいだきえないものである。しかしまさしくそれゆえにすべては次のことにかかっている、すなわちこの《勝利》がわれわれへの神の賜物であり、『われわれの主イエス・キリストをとおして』《希望における現在》であり、そうであり続けることにである。《永遠の将来》における神の現在ほど、それほど完全で喜ばしくそれほど力強いものは何ひとつ存在しない。空っぽ手で語られる『しかし神に感謝せよ』におけるほど、それほど現実的な保持と所有と享受も存在しない。…
 『もし復活への希望がぬけ落ちたなら、敬虔の建物全体は倒壊するであろう。あたかもその建物の土台が抜き去られたかのようにーカルヴィン』。…ひとたび復活の現実が、そしてその中で神の現実が認識されるやいなや、人はかくも無限に狭い道を、キリスト教の山の尾根の道を歩み行くことができるし、また歩み行くことが許されるのだ」(山本訳)