建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

キリストと共に2  ピリピ1:21

2000-36(2000/10/8)

キリストと共に2  ピリピ1:21

 「なぜなら私にとって生はキリストであり、死は利益だからだ」

 「生はキリスト」は、説明不足で文意が必ずしも明らかではない。バルトはこの言葉に対する「決定的な注釈」がガラ2:20であるという、「私は生きている。しかしもはや私ではない。キリストが私のうちに生きておられる」。そしてバルトはこの21節の「生」を人間パウロ自身の「生」という意味(22節「肉にある生」)に解してはならないとみる。パウロの「生」は《他なる》生であり、それはキリストご自身である。クリソストモスの解釈ではこうなるという「この現在的生の中にあるのは私固有の生ではなくて、キリストなのだ」。バルトの解釈はこうである、
 「私は生きている、しかし私の生はキリストによって逮捕され、拘留されている、こうして私に代わって、私のために、キリストが私自身の生を生きてくださっている。[キリストとの]間接的同一化である。…キリストは私に代わって代理的に生きたもう」。キリストとのこの間接的同一化の箇所として次のものをバルトはあげた、「私たちの体に現われようとするイエスの生命」(第二コリ4:10)、「内なる人」(同4:16)、「キリストにある新しい被造物」(同5:5・17)ガラ2:20「私を愛し私のためにご自身を渡したもう神の子を信じる信仰にある生」など。しかし他方バルトはこことの関連で「キリスト神秘主義」について語ることを放棄している。
 「自分の死が利益だ」と言った意味について。パウロにとって死は決して一般論ではなかった。彼はエペソでローマ当局によって近衛隊兵営に投じられて(1:13)裁判を待っていた。
 「パウロは自分の囚われの状態が殉教の死をもって終ることかもしれないことを考えに入れざるをえない。この場合にこそ、彼は《死後ただちによみがえってキリストのもとに移されること》を待ち望んでいる。 自分の殉教の死の場合には特別の種類の復活が与えられることを彼は待ち望んでいる。…起こりうるかもしれない死刑の宣告という思いに彼の意識がいかに強く関わっていることは、彼が自分を諸教会のために献げられる犠牲であるとみなしていることからも、明らかである」(アルバート・シュヴァイッアー「パウロ神秘主義」1930、武藤、岸田訳)、そして注的に以下を引用した、
 ピリピ2:17「しかしたとえあなたがたの信仰の《供え物と奉献にそえて》、私の血が注がれたとしても、私は喜ぶ、あなたがたすべてと共に喜ぶ」バルト訳(ローマイヤー訳もほぼ同じ。この箇所は翻訳が特にむずかしい。佐竹訳「たとえ私の血が注がれることがあっても、あなたがの信仰を捧げて礼拝できることを私は喜ぶ」)。
 シュヴァイッアーの解釈の特徴は、このパウロの言葉を第二コリント12章のバラダイスへ移された体験と関連づける点にある。
 「しかし主の幻(オプタシア)と啓示を私は語りたい。私はキリストにある一人の人間を知つている。この人は14年前、《第三の天に移された》--それが体においてか[体のままか]私は知らない、体の外部においてであったか、私は知らない、神がご存知である。この人は《パラダイスに移されて》、口では言えない、人間には語ることが許されない言葉を聞いた」(第二コリ12:2~4、ブルトマン訳)。
 シュヴァイッアーはパウロと天に移されたエノクを関連づけている、「私の祖父エノクがさらわれていった、選ばれた者らと義人らが住む園」(エチオピア・エノク60:8)「この後、彼(エノク)の名は、乾いた大地に住む者たちの中から、あの人の子、霊魂の主のみもとに生きながら引き上げられた」(70:1)。へブル11:5「エノクは信仰によって死をみないように、移された。神が彼を移されたので彼は見えなくなった」。シュヴァイツアーはいう
 「パウロは他の死者たちと同じような仕方でよみがえるのではなく、死の安らいから目覚める時《ただちに朽ちない体を所有し》、またその体でイエスと会うために《空中に移される》と想定していた(第一テサ4:17)。それゆえイエスのもとに移されるという思想は、キリストにあって死んだ者の復活という観念自体のうちにすでに含まれている。…すでに天にまで移される体験をしたと自覚しているパウロは[第二コリ12章]、自分の身に起こるかもしれない殉教を予想して、キリストにあって死んだ他の者たちよりも《さらにすぐれた仕方における復活を体験するとの期待》におそらく到達できたであろう。かくしてパウロにおいては、《自分の殉教の死の場合に、ただちに個人としてよみがえり、キリストのもとに移されるとの希望》が生じる」。
シュヴァイッアーの解釈によれば、パウロがピリピ1:20以下で述べている事柄は、使徒パウロ、地上にあってパラダイスに移された特別の体験をもつ人にのみ妥当する特殊の復活への希望であって、キリスト者一般には適応しない希望となる。 続