建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

実存の変貌  ロマ5:3~4

2000-41(2000/11/12)

実存の変貌  ロマ5:3~4

 財産と魂の関係。ソルジェニーツインは、囚人になってはじめて「財産と魂の関係」を認識できたと語っている。護送される囚人がその途中で見かける、平穏な生活を送っている人々を見て、その話すのを聞いて、どのように感じたかについて述べている。
 彼は護送のの途中、二人の監視と共にある乗り換え駅の待合室で列車を待っているが、手錠をはめられていないので、人々は彼が囚人だとは気づかない。人々の会話が聞こえてくる。-一どこそこでは夫が妻を殴るとか、どこそこでは姑が嫁と折り合いが悪いとか、うちのアパートのお隣さんが靴の泥をよく落とさないとか、そんな話が聞こえてくる。そのうち彼はうんざりして虫酸が走る。死に直面した人がその時はじめて人生の意義を悟るのと同じように、囚人になってこれまでの生活、人生から根こぎにされ、人生の《ある種の終り》を体験したことで、人生において何が重要かを把握したのだ。彼には人生の物事の真の尺度、人間の無意識的な、あらゆる弱点や欲望がじつにはっきり見えてくる。
 「靴の泥を落とさなかったことがどうだというのか、姑がどうだというのか。人生のすべての謎をお望みなら私がさっそくあなたがたにぶちまけてさしあげようか。はかないもの一《財産や地位を追い求めてはいけない》。そうしたものは何十年も神経をすりへらして、やっと手に入れるものだが、一夜で没収されてしまうものだ。生活に超然とした態度で生きなさい。 幸におびえててはならない、幸福を思い焦がれてはいけない。結局のところ、辛いことは一生続くものではないし、一から十まで善いことずくめといこともないからだ。凍えること、飢えと渇きに苦しめられることがないならば、それでよしとするのだ。いったい誰を羨むことがあろう。目を覚まして、心をきれいにしなさい。そしてあなたを愛し、好意を寄せてくれる人々を、何より大切にすることだ」(「収容所群島」第二部 第四章「島から島へ」)。
 私はここを読んでショックをも受け感動もした。心のどこかで幸福イコール物質的な豊かさと考えていた自分を恥じた。読みたい本が読め、聴きたい音楽が聴け、愛する家族とささやかな生活ができれば、それで充分だと考えるようになった。また希望は所有の対立的で、所有とは共存しがたいとの、マルセルの言葉に同意した。

実存の変貌
 彼は一九四五年、友人への手紙の中で、スターリンについて不用意な言葉をしるしたために、それが検閲にひっかかて、政治囚として八年の刑を受けた。刑期のうち、初めの一年を一般の収容所で送り、次の四年間を特権囚として数学の研究活動をした(「煉獄にて」で作品化)。最後の三年間をカザフ共和にあった政治囚のみの特別収容所で送った(「イワン・デニソヴィチの一日」で作品化。ちなみにその場所はドストエフスキーが入れられたオムスクとはあまり遠くない地と推定できる)。その後三年間流刑囚とされた(その間、三六才の時、ガンにかかりタシケントの病院に一年間入院、治癒した「ガン病棟」で作品化)。
 彼は収容所に入れられた最初のうちは、なるべく一般作業(野外の肉体作業)を避けようとしたが、うまくいかなかったという。しかし六年日に、特権囚から追放されて政治囚の収容所に引きもどされた時点からそういう考え方を捨てて、雑役夫となり、やや熟練を要する石工となった。石工は雑役より安定しており、しかも特権囚のように当局に対して卑劣に立ち回る必要がなかったかだという。「卑劣な立ち回り」は「もっとも本質的なものを考える妨げとなる」とに感じられたからだ。この「本質的なもの」とは先に言及した「詩作」のためであった。
 「最初のうちは自信がなく、不安だった。…肉体作業に向かない、頭でっかちな私たちには、みんなと同じ作業をしていても、他の連中よりずっと辛いのだった。しかし私は意識的にどん底に落ちて、そこにある共通の、硬くて石ころの多い底辺をしっかり自分の足で踏みしめた時から、私の人生にもっとも重要な時期が始まり、その間に私の人格は完成されていったのである」(第五部、第五章「石の下の詩と真実」)。
 一九世紀ロシアの囚人ドストエフスキーらには「呪われた離反者の意識」「自分の罪に対する無条件の自覚」があった。それに比べてソルジェニーツィンソ連の政治囚の場合には、「無実の意識」「何百万人にふりかかった災難という意識」しかなかったという。この意識こそ収容所で驚くほど自殺が少ない原因であると彼は分析している。
 「もしこの何百万にものぼる無力で哀れな存在が、それでもなお自らの生命を断たたなかったとすれば、それは彼らの中に何らかの敗北を知らない感情があったことを意味している。それは何らかの強力な思想でもある。これはすべての人々に共通な、《自分たちは潔白である》という自覚であった」(第四部第一章「向上」)。
 このような自分は潔白であるとの自覚から、将来の釈放の日まで生き抜こうとする決意が生まれる。しかしこの時点で、彼らは「重大な分岐点、魂の分岐点」にたどりついたという。
 「この道は左右に分かれ、一方は上にあがり、他方は下にくだるのである。そして右に行けば生命を失い、左に行けば良心を失うのだ」
 「右に行けば生命を失う」、これは囚人たちがたとえ生命の危険にさらされても、自分の良心に恥じない、断固として自分に忠実に生きる道であった。もちろん大部分の人がこの道を選んだのではない。かといってごく少数の人でもないのだ。この道を選んだ人もたくさんいた。
 「監獄が人を根底から変えることは、何世紀も前から知られている。わが国ではいつもドストエフスキーを引き合いに出している。たとえば革命前ルチュネツキーは書いているー『闇は人を光に対してより敏感にする。強いられた無為は、人間の中に生命、活動、労働に対する渇望を起こさせる。静寂は人間をしてその自我を、置かれた環境を、自分の過去と現在を深く考えさせ、その将来をも考えさせるのである』」
 他方で「左に行けば良心を失う」、ーこれはどんな犠牲を払っても他人を犠牲にしても断固として生き残ろうとする道である。卑屈に立ち回って自分が生き残ることのみを追い求め、少しでも楽な作業、少しでも大きなパンと濃いスープを得ようとして他者を踏みつけにしていく。しかしながらこの道にも実は重大な難局が待ち構えている。
 その難局とはこうである、「生きるためには本当の生活を生きることができないとしたら、なぜそれまでして生きのびる必要があるのか、と私は心に疑問を感じ始めていた」。