建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

詩篇における希望2

2001-2(2001/1/14)

詩篇における希望2

25篇
 「わが神よ、あなたに私は信頼します
  あなたを待ち望む者は、誰も恥をこうむらない。
  あなたこそ救いの神です。 日々私はあなたを待ち望みます」(25:2、3、5)。
 この箇所では神への信頼と希望はほぼ同義語となっている。それゆえルタ一訳は「信頼する・バーター」(2節)を「望みをいだく」と翻訳している。この点は20~21節にも妥当する。「私はあなたを避け所とします(ルタ一訳「私はあなたを信頼します」)。私はあなたを待ち望みます」。嘆きの歌においては、神への信頼の告白と神への希望の表明とは相則している。

71篇。ここではすでに年老いた苦しみに圧迫されている歌い手は驚くべき告白をする
 「ヤハウエよ、あなたはわが望み、
  ヤハウエよ、あなたは若い時からのわが信頼、
  母の胎にいる時から、私はあなたを支えとした。
  わが讚美はいつもあなたに向けられている」(71:5~6)
 ここでは、文字通り希望は神信頼と並行しており、しかも希望ー信頼ー讚美の三つの関連も登場している。神への信頼は見えざる内面の真実という形ではなくて、目に見える神讚美の行為の形をとる。それに希望もまたひそかな心の事柄ではなく、他者の目に見える神讃美の形をとっている。
 「私はいつも待ち望んで
  あなたの栄誉をいよいよ増し加えよう」(71:14)。
 この箇所では「待ち望む・イッヘール」は、神に栄誉を帰すこと、またすべてを神から期待するという希望の行動は神讚美として、歌われている(ツインメリ)。

 嘆きの歌では「神を待ち望め」という命令形、勧告が登場する。
 たとえば、礼拝における祈祷ではなく、会衆の自己勧告としてこう歌われている、
  「ヤハウエを待ち望め、
   あなたの心を堅くし強くせよ。ヤハウエを待ち望め」(27:14)。

130篇。ここでは歌い手は自分の罪ゆえの苦境の深き淵から神に呼ばわる。
 「ヤハウエよ、深き淵より私はあなたに呼ばわります」(130:1)。
その後で歌い手は自分の希望と待望について語っている。
 「私はヤハウエに望みをいだく。
  わが魂はみ言葉を待つ。
  わが魂は夜回りが朝を待つのにまさって、
  夜回りが朝を待つにまさって、ヤハウエを待つ」(130:5~6「望みをいだく」はキーヴァー、「待つ」はイッヘール)。
 そして礼拝の司式者は会衆に呼びかける、
 「イスラエルよ、ヤハウエを待ち望め
  ヤハウエには慈しみがあり、
  豊かな贖いがあるからだ」(130:7) 

 42~43篇には「神を待ち望め」という自己への勧告が繰り返して出てくる。この歌はエルサレム神殿から違く隔たった外国に住んでいる「ディアスポラの(散らされた)ユダヤ人」のテーマを問題としている。歌い手はその地で異邦人によって敵対的な行為を加えられ、再びエルサレム神殿でこぞって礼拝することを切に願っていた。歌い手は三回にわたって自己への勧告をしている。
 「わが魂よ、なにゆえ意気消沈するのか、わがうちにうめくのか。
  神を待て。わが顔の助け、わが神に
  なおも信仰告白することもあろうから」(42:5、11、43:5)。
 ここでは神に信仰を告白する日がやがてくることを根拠にして、神を待ち望めとの自己勧告がなされる。この待望の形は詩篇における特徴的なもので、歌い手の待望は、自分の患難が取り除かれることにも、平穏な生活を獲得することにも、向けられてはいない。むしろいつの日かエルサレム神殿に巡礼していって、会衆のうちでもう一度神を讃美し、信仰を告白することに向けられている(42:2「いつ私は行って神のみ顔をみるこができるだろうか」)。この待望が実現するとの確信はどこからくるのかは、はっきりとは語られていないが、この人物が《かつて体験した神殿での礼拝の思い出》が作用していることは明らかだ。「かつて私は、気高い仲間と神の家に至り、多くの人々の中で、喜びと感謝の声をあげた」(42:4)。すなわち過去の恵みの体験の想起が、未来にいける希望の根拠、保証となっている。これは《いかにして希望をいだくか》のポイントとして重要である。