建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

詩篇の希望3  詩39:1~3

2001-3(2001/1/21)

詩篇の希望3  詩39:1~3

 39篇では「希望は何に依拠しているか」を取り上げている。歌い手は、はじめ自分の内面の痛み、絶望を心に秘めて口に出すまいとしたと告白している(「惡しき者が私の近くにいる間は、黙して沈黙しようと欲した」39:2~3)。しかし歌い手の心は、痛みが激しく、炭火のように燃えたので口を開いて、人生のはかなさについて語り出した、
 「ヤハウエよ、私の終わりと、私の生涯の日々がどれほどあるかを教えてください。
  私がいかにはかないものであるかは知つている。
  見よ、あなたは私の生涯をつかの間とされ、
  あなたの前では私の生命は無にひとしい。
  しっかり立っている人間も、すべて息にすぎない」(39:4~5)。
かくて歌い手は自分の生きている世界を希望も未来もないとみなしている、
 「私はあなたのもとにいる旅人、
  わが祖先のように寄留者にすぎない。
  私が世を去つていなくなる前に、私から日をそむけて
  私を喜ばせてください」(39:12~13)。
「私から日をそむけて」は、彼にとって神の眼差しが自分を攻撃しているように感じられるので、自分から「目をそむけて」ほしいとの訴え。
 このような人間観、人生観には、実存論的な希望(ハイデッカー)はどこにも見い出せないし、また希望を生み出すような世界観(マルクス主義)も存在しえない。にもかかわらず、彼は苦悩に満ちた告白の直中で驚嘆すべき言葉を吐く。
 「ヤハウエよ、今私は何をに待ち望むべきでしょう。
  わが希望はあなたにのみ向けられている。
  わがすべての咎から私を救い出してください。
  私を愚か者のあざけりとさせないでください」(39:7~8、「待ち望む」はキーヴァー、「希望」はトヘレト)。
 歌い手はここで出口のない状況、自分の咎ゆえの患難、自分をあざける者たちの攻撃による絶望の状況から、ヨブをも超える不屈さをもって神にまで手を伸ばしている。しかしながらこの文脈からだけでは、どのようにして歌い手が出口「神への希望」への転換をなしえたかは必ずしも明らかではない。先の69篇では礼拝をとおして「神を待ち望む」というイスラエルの信仰的伝統によって歌い手は神へ希望をもちえた。ところがここではそのような信仰的な伝統への言及はない。すなわち39篇では「いかにして飛躍してその希望をいだくことができたか」ははっきりしない。はっきりしているのは、歌い手が苦境の中で最後の力をふりしぼって神に自分の希望をかける《姿勢のみ》が忘れがたい印象を残す点である。