建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ヨブ記における希望1  ヨブ8:11~13

2001-6(2001/2/11)

ヨブ記における希望1  ヨブ8:11~13

 ヨブ記は知恵文学に属すが、成立は前400年頃。義人の味わう不当な苦しみを主題としている。 ヨブ記では、人間の希望の可能性について徹底して《批判的な論議》が展開されている。構成上は、 1~2章と終りの42章後半が散文で、その他は詩文で書かれている。この長い詩文の部分で、ヨブと三人の友人たちの論議が闘わされる。また32~37章は四人目の友人エリフの演説で、後の時期に付加されたものとみなされている。ヨブと友人たちとの討論が始まるが、そのいきさつはこうである。
 ヨブは、神を恐れる敬虔な人物で、財産にも恵まれ、10人も子をもち、人びとからも尊敬されていた。時に天上で神とサタンとの話合いがなされた。サタンは神の使いの一人で、人間の隠された咎をさらす働きをもち、ヨブについて次のように神に訴えた、
 「ヨブは恵まれた人生を送っているから、神を恐れ、神を信じいているにすぎない。ヨブにあらゆる不幸に遭遇させてヨブの敬虔が本物はどうか試してみましょう」。かくしてヨブにあらゆる不幸が訪れた。財産はなくなり、10人の子供も災難で死に、自らは病気となり、妻にも見捨てられ、灰の上にすわって、破片でできものをかきむしった。
 このような時、ヨブの友人たち三人が訪れたが、ヨブの苦しみの様があまりにひどいのにショックを受けて七日間黙つてヨブのそばにいた。それからヨブは口を開き、自分の生まれた日を呪い、苦境の中で叫び出した。かくしてヨブと友人たちとの討論が始まった。
 友人たちの発言。はじめに友人エリパズ、三人のうち最も落ち着いていて、思慮深い人物がヨブを慰めようとする。かつてヨブは苦境にある人びとをいかに力強く慰め、励ましたかをエリパズはヨブに思い出させようとする。
 「ところが今、事があなたに臨むと  あまたはもろくなり
  事があなたに触れると あなたはおじ惑う。
  あなたの神への恐れはあなたの確信ではないか
  あなたの道の全きことはあなたの希望ではないか
  考えてもみよ 誰が罪なくして滅びたか
  どこに正しい者で亡ぼされた者がいるか
  私の見たところでは 悪を耕し 害悪を蒔く者はそれを刈り取る
  彼らは神の息によって滅び その怒りによって消えうせる」(4:5~9)
もう少し後では、エリパズはこう助言する
 「しかし私ならば求め 私のことを神にまかせる
  彼は測り知れぬ大きなことを
  数知れぬ不思議なことをされる。
  地の上に雨を与え 野の上に水をもたらす。
  彼は低いものを高くされ 悲しむ者を助け起こす。
  彼は賢い者をその悪だくみによって捕らえ、
  曲った者の計りごとをくつがえされる。
  彼は彼らの口から 強い者の手から貧しい者を救う
  そして貧しい者にも希望があり 不義はその口を閉じる」(5:8~16)
エリパズはヨブに、自分の苦境を神に委ねるように勧めているーー神への恐れを持て、それが神の助けに対する確かな保証となる。そしてこれこそあなたの希望とならなければならない。しかし、ヨブはエリパズの慰めを拒否した。
 そこで2人目の友人ビルダテが登場してきた。彼には前提となる確信から論じた。
「神が公義を曲げるであろうか。全能者が正義を曲げるであろうか。
 あなたの子たちが彼に罪を犯したので 彼は彼らをその咎の手に渡されたのた。
 もしあなたが神に求め 全能者に恵みを願うならば あなたがもし清く正しくあるなら
 彼はあなたのために起き上がって
  あなたの住みかを回復してくださる」(8:3~6)
希望は喩によって示されている。
パピルスは沼地でなくて大きくなれるだろうか
 葦は水のない所に成長するだろうか。
 まだ芽が出たばかりで 切られる前に
 すべての草に先立って枯れてしまうだろう。
 すべて神を忘れる者はこうだ。
 不信仰者の希望は減び去る」(8:11~13)
ここで主張されているのは、希望は人間が正しくあるところにある。義のないところには絶望しかないという見解である。
 三人目の友人ゾバルは、神の秩序に生きる敬虔者の知恵に基づく見解である。
「あなたの手に不義があるなら遠ざけよ
 あなたの天幕の中に悪を住まわせるな
 あなたは希望をもつゆえに信頼し 守られて安らかに伏すことができる。
 しかし悪人の日はかすみ 逃れる場所も失われ
 その望みは吐き出す息となるであろう」(11:14~20)
ゾパルの主張は明解である。《希望は人間の手に入れることができるものである》。正しくあれ、そうすれば人間は希望を持つすべての根拠を獲得できる。
 ヨブの応答。ヨブの返答は三人の友人たちの見解に比べて反宗教的であり、反逆的である。はじめにヨブは行きずまった人間の常で彼らに文句をいう。
 「私にどんな力があるからといって なお待たねばならないのか
  私にどんな終りがあるからといって なお耐えねばならないのか
  私の力が石の力だというのか 私の肉は銅だとでもいうのか」(6:11~13)
 ここで「待つ」はイッヘール。待望と忍耐との並行は目を惹く。