建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ヨブの希望3  ヨブ17:13~16

2001-8(2001/2/25)

ヨブの希望3  ヨブ17:13~16

 ヨブによる希望についての第三の弁論
 「おお大地よ、おまえは私の血をおおってくれるな。
  わが叫びに けして休息の場を見い出すな
  見よ、今すでに天にわが証人があり、わが宣誓弁護者は高き所にある。
  その者こそわがパートナーとなり、私を執り成す者である。
  わが目は神に向って眠ることなく見開かれている。
  彼は神との人の論争を調整してくれる。
  人間とパートナーとの間にあることをも」(16:18~21、ホルスト訳)
 ここには希望という用語は出てきていないが、この箇所の背後には友人たちが「秩序」という冷たい考えに基づいて、神の前でヨブの生きる権利を否定しようとした論議が偽りであるとの、ヨプの見解がある。そしてヨブは友人たちが自分に向って頑なに主張した、「敬虔な者にのみ希望を与える神」に逆らって、神に対して自分の権利、正義が不当に侵害された者の叫びを発している。
 「大地よ、私の血をおおってくれるな」(18節)は、カインに殺されたアベルの血の叫びを想起させるが(創世記4:10)、これは不当に侵害された自分の権利の回復を求める法的正義の遂行を求める叫びである。ヨブは自分が叫ぶのをやめることのないように願った。この叫びをやめたら、正義への問いがなくなってしまうからである。しかし法廷で真実を明らかにするためには、訴追された者の弁論だは十分ではない。その弁論の真実さを証明する証拠、証人が不可欠となる。ここでの「証人」「わが保証となる者」とは、自分の主張、正義を承認してくれるとヨブが確信している「神」、被造物を再び顧みる創造者、神である。この証人となられる神は、ヨブの「保証となる者」であるが、それはまぎれもなく他なる神、神の隠された、別の姿である。この「他なる神」が今ヨブに「敵対し訴追する神」にヨブのために弁護してくれる。他なる神は今地上にはおられないで「天、高い所」、超越的な世界におられる。ヨブはかつては地上ではない陰府の世界を避け所としようとしたが(14:13)、ここでは救いを天上の世界に求める。ヨブは「希望の翼をかりて」(詩139:9「曙の翼」はクラウスによれば「希望の翼」と訳せる)、天上にいます希望の神に舞い上がったのだ。

第四の弁論。
「私は何に希望をいだくのか。
 もし私が陰府をわが家とし
 暗闇にわが寝床をのべ
 墓に向って、あなたはわが父と呼び
 うじに向って あなたはわが母 わが姉妹と言うならば
 私にとってどこに《希望》はなお存在するのであろうか
 これは陰府の関門に下っていけ」(17:13~16、ホルスト訳) 

 塵(ちり)の上にも《休息がある》」(浅野訳) 
 用語的には「望む・キーヴァー」と「希望・ティクヴァー」が二回出てくる。しかしこの箇所でヨブは「希望について否定的に言及した」との解釈がほどんとである。
 ツインメリ、ヴォシュッツはこの箇所を取り上げていない。ホルストの註解は否定的な言及とみる。「ここでは、死の現実を前にしたヨブの希望と幸せとの可能性がどこに認められるか、という問いが取り上げられている。陰府へと下る道は、けして希望をともなうものではないし、幸せは『生ける者の国に』しか見い出せない」(詩27:13)。 「幸せ」については、15節後半「誰がわ希望を…」の希望を、ギリシャ語訳に従って、多くの訳が「幸せ」と訳すため。原語はやはり「希望」。
 ヴェスタマンは希望と死の接触を強調する、
 「『希望と幸せは私と共に陰府に下っていくのだろうか。あるいは私たちは共に塵に向って降りていくのだろうか』 (ストイエルナーゲル訳)。この16節をとおしてヨブの希望の対象はひときわ強調されている。…希望は人間の死の運命に関与するものとして。希望はまさしく端的な人間存在に属しているため、人間の死への道にも結びつけられるのである。人間存在の限界性はここでは、希望が《死の彼方にまで及ぶものではない》という途方もない仕方で表現されている。私は希望を墓の中に携えていくのだ」(前掲論文)。
 このようにヴェスタマンは希望を人間存在の運命共同体として把握し、明らかに死後の世界には成立しないものとみなしている。
 他方この箇所をヨブが希望について「肯定的に語ったもの」とみることができる。その場合、一つは16節後半(口語訳では「われわれは共に塵に下るであろうか」)の訳が問題となる。ポイントは「ナハト(ノーアハ)」(安息、休息の意味)を「ネーハト」(「われらは下る」)に読み変えること(浅野順一、註解。関根正雄、註解。ゲゼニウスのレキシコンは「ナハト」を死における安息の意味で16節後半をあげている)。原文を素直に読むとこうなるーー浅野訳「その時ともに塵の上にて休息あらん」。関根訳「もし塵の上にともに安息があるならば」。
 このような翻訳に基づいて、関根正雄のみがこの箇所を、希望についての肯定的な言及とみる。
 「14:13以下ですでに陰府を新たに恵みの場所として述べたヨブは、ここで違った角度から陰府に再び望みを託していると解したいのである。…ここでヨブは陰府を自分の住みかと定め、暗闇に安んじ、陰府を父と呼び、うじをも母や姉妹として親しむ時、ほんとうの光が与えられるという。ルタ一のいう《地獄への放棄》がここに語られているのである。自分を最も低い所におき、そこに安息を見い出すことを言っているのだと思われる」(註解)。