建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

十字架上での叫び  マルコ15:33~34

2001-16(2001/4/8)

十字架上での叫び  マルコ15:33~34

ハインリッヒ・フォーゲルの解釈
 「この世で最も望みなき場所はどこであろうか。病院の重患ベッドを考えるべきか、あるいは強制収容所の拷問の柱、ガス室、あるいは死刑囚の独房、あるいはヒロシマの無数の犠牲者を考えるべきであろうか。どこが最も深い絶望の場所なのか、私にはわからない。しかし事実、この世で最も望みなき場所は、決して神を見捨てたことのない人間が神ご自身によって見捨てられて処刑台に架けられたところである。この場所はイエスの十字架である。それはこの世のあらゆる神の蝕とはちがった神の蝕であり、イエスはこの蝕から『わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか』と叫び声を上げられた。人間の将来がこの場所ほど全く失われたと思える場所も出来事も決して存在しない。人間のいかなる言葉をもってしても叙述できない、いかなる知識によっても決して到達できない驚異すべきことは、まさしくこの場所で、人間に、将来、永遠の将来が開かれたことにある。この人間イエスは、神のみ子であり、したがって神ご自身であるが、自ら私たちの隣人となられた。この方は、私たち人間が自己を理解するのとはちがって、全人類の問いかけに耳を傾ける方である。自己の宗教性の無数の道で私たちは神を探し求めたが、自分自身の似姿にいきついただけであった。しかしイエスは私たちを探し求めて、私たちが絶対もうだめだ、終りだ、というところで私たちを見い出してくださった。この方に対して神は、しかりとアーメンと言われて、この方を死からよみがえらせたもうた。しかしこの方は生と死とにおいて私たちと関わろうと欲しておられたのであるから、私たちも[生と死において]この方と関わっている。かくしてこの方は私たちのために神の将来に至るドアとなられた」(チェコの神学誌「旅人の交わり」1959、299。 ゴルヴィッアー「曲がりくねった木ーまっすぐな歩み」より引用)。

ゴルヴィッアーの解釈
 「マルコ15:33以下、マタイ27:45以下の、十字架上の叫びの箇所は、イエスの史実的な最後の瞬間について伝えるものと繰り返し理解され、また死にゆく方の内面生活を明らかにする状況として、イエスがメシア的なみ国をもたらす方の信仰が、十字架ではじめてイエスから離れた不可避的な帰結として理解された。しかし明らかにしなくてはならないのは、福音書に伝承されたイエスの十字架上での7つの言葉のいずれも、速記録に由来したものではないという点である。新約聖書の4つの受難物語は相異なった傾向を示している。…
 マルコ、マタイにおける、神に見捨てられたとの叫びは、決して史実的な報道を提供するものではないし、これら両福音書によっていやいやながらしるされたものではなく、史実的に忠実であろうとする義務のゆえにしるされたものである。たとえ彼らの師が、最後の瞬間まで事柄に毅然としていた他の殉教者(ソクラテスの死など)とはちがって、内面的に打ち砕かれて全く絶望のうちに死んだことを伝えるのが苦痛であったとしてもである。ここでは史実的な報知ではなく、むしろ神学的な報知を得るべきである、すなわちこの箇所の解釈はただ、両福音書が最古の原始キリスト教ゴルゴタの出来事をどのように翻訳したか(H・ゲーゼ)を問うことができ、両福音書は受けた伝承から十字架でのイエスのこの言葉のみを次の世代に手渡そうとしたのであって、ルカ伝のように他のもの(おそらくマルコから受けて知つていたもの)によってすげ代えることはしていないことを、明らかにしようとしている。
 両福音書はイエスの死を《黙示文学的な徴表》をまとわせた、すなわち全地をおおった異様な暗黒、マタイ伝の場合、神殿の重い幕が2つに裂けたこと、地震、岩が裂けて墓から死人らが出てきたとある(マタイ27:51以下)。イエスの大きな叫び(27:50「イエスは再び大声で叫ばれて」)は、黙示文学的な手法である。すなわち当時のユダヤ教の黙示文学的な集団において考えられていたことだが、メシアは《大声を伴つて》到来する(第1テサ4:16、黙示1:10参照)。最古の伝承はおそらく、ただイエスは異常な仕方で、言葉にならない大きな声をあげて死んだことだけを言っていた、そして伝承のより広い過程ではじめて、この大きな叫びは、詩篇22のあの節「わが神、わが神…」と結合された。あの節が初期の教会にとってイエスの死の理解に対して役立つものであったし、おそらくそのようにして、十字架の報告の特別のこの申し立てが成立し、またイエスの十字架の死を説明するものとなった(ルターは「キリストの苦難をこれほど明確に述べたものを他の詩篇のどこにも見い出せない」と述べた。H・ゲーゼ「詩篇22篇と新約聖書」1968の論文)
 さてここでは何が起きたかを、考察しなければならない。メシアの大きな叫びという黙示文学的な予告において、その叫びが、この世には恐れを信仰者らには喜びをもたらす勝利の叫びであったとすれば、その叫びから原始教会によって《メシアの絶望の叫び》がつくられ、弟子たちは驚き、自ら絶望した。この説明が復活祭後の教会のものであるとすれば、これはおそらく全く予期せぬ説明である。なぜならこの教会が復活祭の後に、排他的な意味で『み子』と名づけ、神と結びっけられた方として、神なくしては存在しない、この方なしには神も存在しない方、あらゆる試練に耐えた方として信じた方によって、その叫びが発せられたからである。
 彼が神に見捨てられたということは、事実、むろんここでは痛みをとおして引き起こされたイエスの主観的な感情が考えられているのではないにしても、不可能事であり、不可解な事柄である。神と不可分のこの方が、ここでは神によって打たれ、見捨てられた神の僕(イザヤ53章)として十字架に架けられた。この方は人間たちによってばかりでなく、この方なくしてはとうてい存在しえない方によっても、見捨てられた方として十字架に架けられたのだ。父はこのみ子なくしては、人間の神であることができないのであるが、その父がみ子を見捨てた。『真に彼はすべての者から見捨てられた』とルターは言った。神の真実がここ以上に鋭く、緊迫して、考えられないほど痛烈に問いかけられたところはどこにもない。神の真実がここほど、かくも矛盾のもとに隠されたところはない。《地上において発せられる神へのあらゆる叫び、なぜという問い、私たち自身の叫び、疑問、嘆き、嘆願は、すべてこの方の叫びに引き寄せられ、まとめられ、また質的に凌駕されている》。私たちの苦悩はこの方のものである。しかしこの方の苦悩は私たちのものをはるかに超えている。なぜならこの方の苦難は肉体的なものばかりではなく、十字架刑の肉体的な苦悶をともなう死への恐ろしい不安ばかりではなく、これまでの神への確信とメシアとして派遣されているとの意識との挫折ばかりではないからだ。 これは、これまで誰も甘受したことのない甘受である。私たちの各々はあくまで自分自身の苦しみを苦しむのであるが、しかしこの方の苦難はすべてのものと共にまた、すべての者の苦しみ、生命の源から見捨てられたすべての者の、またすべての者のために前もって甘受した苦しみではない。
 カルヴィンはこのイエスの叫びを、古代教会が信仰告白で語った《キリストの地獄行き》と同一視した。キリストの地獄行きは、もはや死とはかなさとの究極性への大胆な異論の提起としてではなく、むしろ外面的な苦難《神から遠いところで見捨てられることの自己受容として考えられている》。…
 この絶望の叫びは、しかし破滅と誤りの絶望ではない、幻想であることが暴露された希望への絶望ではない。その叫びにとって絶望と信仰とは関連づけて考えられていた。《その叫びは信仰と服従において引き受けられた絶望である》。…
 後の教会の教説が新約のキリスト論的言表をイエスの神性と人間性についての古代教会の教説の定形に組織化した時、《すべてのパラドックスパラドックスは、この2つの本性論では決してなく、イエスのこの死に関してのものである。亀裂はイエスをつらぬいて走っている、神ご自身をつらぬいている。神ご自身が神によって見捨てられ、神がご自身を排斥しておられる》。これは思弁的なパラドックスではなく、むしろまったく特定のリアルな史実的な出来事、特定の史実的な人間の死が、この人間の声において、究極的なこと、神的な声を聞き、随順した人々によって、他のすべての不可解さを凌駕する不可解さで表現されているにちがいない。もっともそのことが明らかになったのは、後になってから、パラドックスの克服から、復活した方の出現からであったが。初期の教会に、ヨブ記の緊張をもう一度過度に緊張させ、《神に見捨てられた人間としての神、これを愛の出来事として、愛が現実には何であるかについての究極的な啓示として、この不可解さを考えるように命じたのは、まさしく復活祭である》(「曲がりくねった木ーまっすぐな歩み」1970)。
 ゴルヴィッツアーのこの解釈は、このテーマについて展開した解釈の中でもっとも鋭い、本格的なものであろう。「神ご自身が神によって見捨てられる」とのこの解釈は、モルトマンが「十字架につけられた神」(1976)で展開した同類の解釈 子なる神が父なる神によって見捨てられた出来事という把握」よりも、6年も前にしるされてたものである。ゴルヴィッアーの「イエスのあの叫びが神への私たちの叫び、うめき、神義論的問いを吸い寄せ、包括する」との解釈には心から共鳴した。同じ体験を私たちもしたからだ。しかもさすがにゴルヴィッツアーは、このイエスの叫びを「神の愛の出来事」として正しく把握した。「ご自分のみ子を私たちすべての者のために(十字架・死に)引き渡された方・神」(ロマ8:31)、これが彼の解釈でいう「愛の出来事」である。ここでの「引き渡す・バラディドーミ」は受難用語で、十字架に引き渡す、死に引き渡すという意味である。とにかくゴルヴィッアーはイエスの絶望の叫びのもつ「衝撃」とまともに格闘しつつ解釈している。