建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

マグダラのマリアへの復活顕現1  ヨハネ20:13~17

2001-17(2001/4/15)

マグダラのマリアへの復活顕現1  ヨハネ20:13~17

 ヨハネ伝は、復活のキリストが最初に現われたのは、ペテロではなく、マグダラのマリアであったと述べている。マタイ28章、マルコ16章の追補部分でもそう述べている。この立場は、復活のキリストが最初にケパ・ペテロに現われたとの、原始教会の復活伝承(第一コリント15章)とは鋭く対立している。
 「(墓の中の)み使いらがマリアに言った『婦人よ、なぜ泣いているのか』。マリアは答えた『人々が私の主を取っていきました。彼らがあの方をどこに置いたのかわかりません』。こう言った後に、彼女はうしろを振り向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかしそれがイエスだと彼女は気づかなかった。イエスは言われた『婦人よ、なぜ泣いているのか。誰を探しているのか』。マリアはそれが園丁だと思って言った『あなた、もしあなたがあの方を取っていったのでしたら、どこに置いたのか私に言ってください私が引き取りたいのです』。そこでイエスは言われた『マリアよ(マリアムよ)』。彼女は振り向いて、ヘブル語で『ラブニ』すなわち『師よ』と言った。(17節)イエスは言われた『私に触るな。私はまだ父のもとに上っていないのだから。私の兄弟たちのもとに行って彼らに言いなさい『私は私の父、(すなわち)あなたがたの父、私の神、あなたがたの神のもとに上る』と」(ヨハネ20:13~17、 シュナッケンブルク訳)。
 イエスの墓が空虚であったのは「自分の栽培していた野菜がイエスの墓詣での人々によって踏み荒らされたので、園丁ユダがイエスの遺体を別の場所に異動したからだ」との当時のユダヤ教徒らの見解が、15節の「マリアはその人が園丁だと思って」の背景にはあるが省略。この箇所について、四つのポイントを取り上げたい。
 第一のポイントは、マリアがどのようにして復活のイエスを認知したかである。彼女は墓の外に立っているイエスを「見たがそれがイエスだとは気づかなかった」(20:14)。このポイントはエマオの弟子たちの場合にも出てきている(ルカ24章)。そこでは復活のイエスが弟子たちの前でパンを裂いた時、それまでくらまされていた彼らの目が開かれたとある。イエスがパンを裂く姿が復活のイエスの認知を可能にしたのだ。ここでは眼目は、イエスがなされた「マリアム」との呼びかけである(ブルトマン注解)。
 「羊は羊飼いの声を聞きわける。羊飼いは自分の羊を知つていて、自分の羊の名を呼ぶ羊はその声を聞くと、羊飼いだとわかる」(ヨハネ10:3)。マリアの場合も、イエスの呼びかけによって、呪縛が解けて、その方がイエスであることのがわかったので「ラブニ、わが師よ」と応答した(16節)。
 しかしながら「わが師よ」とのイエスへの応答は、マリアがイエスを墓から舞いもどった存在と誤解していて、復活した方としていまだに認識していなかったと解釈できる。マリアが欲したのは、友が、もどってきた友にするように、かつての《師を抱き締める》こと、かつての師イエスとの肉体的な接触であった(ブルトマンの注解)。ヨハネ伝は、はっきりとは述べていないが、マタイ28:9にはこうある「見よ、イエスがマリアらに出会って言われた『ごきげんよう』。マリアらは進みよってイエスの《足をつかんでイエスに接吻した》」(ローマイヤー訳)。ヨハネ伝の場合も、マリアによる同じような行動が前提とされているとみてよい。だとすれば《マリアはすでにイエスにしがみついていた、抱きついていたか、そうしようとしてた》と想定できる(シュナッケンベルクの注解)。このポイントは17節をどう解釈するかと関連してくる。
 第二のポイントは17節の解釈である。この箇所の解釈は論争の的になっている。翻訳も三つに別れている。
 第一の翻訳、ルタ一らは「私に触るな。私はまだ私の父のもとに上っていないのだから」と訳す。この翻訳では、マリアはイエスにさわってはいなかったし、またさわってもいけない。あるいはイエスは今後さわることができない状態にある。あるいは復活した方はさわることが許されない状態にあると考えられている。原語の「デ」を前半の「根拠づけを表す、なぜなら…だからである」と訳す。
 第二の翻訳、「私にしがみつかないで・私の邪魔をしないでほしい。私はまだ父のもとに上げられてはいないのだから」。この翻訳によれば「私にさわるな」は「現にさわっている」状態を終らせるもの。バレットの訳「私にさわるのをやめなさい。実際私はまだ父のもとに上げられていない。私はちょうどそうしようとしているところだ。あなたが私の兄弟たちのに言うべきことは、ほかでもなくこの事柄だ」(注解)。バレットは原語「デ」を強調の副詞「本当に、実際」と訳す。
 第三の翻訳、「私にさわるな…」は、アラム語が正しく翻訳されなかったと推定できるとの解釈。ヴィオレもミハエリスもこう考えた。「さわる・アプトー」の背後には「従う、随順する」という意味のアラム語がはさみこまれていた。本来の意味はこうであったろう。「私の後についてくるな、あなたは以前のように私に従っていくことができると思ってはならない。私は父のもとに上っていかなくてはならないし、あなたは兄弟らのもとに行きなさい」。この解釈を受け入れる人はいない。
 このシーンではマタイ28:9以下の変化した形態が見て取れるのであるから、ヨハネによれば「マリアは主をつかんだ」と推定できる。イエスについては「ふれることができる」と想定されている。イエスはマリアによってほかでもなく園丁と取り違えられたからだ(15節)。しかし決定的な問いは、意図的な接触、あるいはすでになされた接触が回避されるべきかどうかでは決してなく、むしろ「ノーリ・メ・タンゲーレ・我にさわるな」という謎に満ちた根拠づけ「私はまだ父のもとに上っていないのだから」がどのような意味をもつのか、である。したがってここで言われているのは、復活した方は墓と天的な栄光の途上にある(この途上にあっては身体的接触は妨害となるようだ)ということなのか。復活した方がこの道をたどり終えた後には肉体的な接触も許される、と考えられているのかである。
 ヨハネの場合には初めて、復活は父のもとへと上っていき栄光を受けることで完成するとみなされた。しかしヨハネはこの上っていくこと・昇天をこれ以上は述べていない。マリアは上っていく途上の主に出会い、この上っていくことを他の者に証言するよう委託を受けた証人である(参照。行伝1:8~9「聖霊があなたがたに下る時、力を受けて、エルサレムと全ユダヤサマリア、さらに地の果てまであなたがたは私の証人となるであろう。こう言った時イエスは彼らの見ている前で高く上げられ、雲が彼を迎えて、彼らの目から消えた」。ヨハネ伝はこれと違って、弟子たちへの復活顕現は《昇天後の降下》として表現されている)。マリアへの復活顕現での眼目は「途上での顕現」にある。泣いている女性をとおして、イエスは墓から栄光への道をさえぎられ、自分の道をこれ以上妨害しないように彼女に訴えた。  続