建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

マリアへの復活顕現2  ヨハネ20:17~18

2001-18(2001/4/22)

マリアへの復活顕現2  ヨハネ20:17~18

 ヨハネ20:17の強調点は、イエスがまずもって父のもとにいかねばならないという点にではなく、むしろ「イエスが父のもとへ行って救いの手段を実現するという点にある」。マリアへの委託「私の兄弟たちのもとに行って彼らに言いなさい、私は私の父あなたがたの父のもとに行く」(20:17後半)は、弟子たちと同時に読者にも宣教しているもので、ヨハネ伝における復活の出来事の把握の中心ポイントである。イエスの決別説教、14、15、16章、において約束されたことが今や実現を迎えるからだ。14:2ではイエスは彼らに場所を用意するためにいく、と約束された。14:3ではイエスは彼らのもとに再びもどってきて、彼らを自分のもとに呼び集めると約束した、「行って場所の用意ができたら、もどってきて、あなたがたを私のところに連れていく、私のおるところにあなたがたもおるためである」。この箇所の、イエスがもどってくることを終末論的、聖霊論的に理解するならば、復活祭の歴史・出来事のポイントは、イエスが父のもとに上ったことをとおして準備を仕上げた方 特別の全権をもって準備をし終えた方として弟子たちのもとにもどってくるという点である。16:7「私が上って行かなければ、パラクレイトス・弁護者は来ないが、私が父のもとに行けば、私がパラクレートス・弁護者を遣わす」で約束した、御霊を《主は上った後に身体具有的に現われる方として》自ら与えられる。20:22「イエスは彼らに息を吹きかけて言われた、聖霊を受けよ」。そう理解すれば、マリアへの委託は弟子たちに聖霊授与の準備をせよとの伝言としてそれを待望させる約束(16:7)として理解できよう。以下の弟子たちとトマスへの顕現は、天的な栄光へと挙げられた主を共観福音書の場合と同じように、再び地上的な境遇にまいもどり、弟子たちに教え、自分の体にふれるように要請した方として述べているからだ。しかしこれらの復活顕現は、いずれも何か驚くべき《再受肉・リインカーナチオン》である、グラースとの見解はもう少し吟味を要する。
 ブルトマンの「注解」の特徴は、2つある。1つは「私にさわるな」は従来の、共観福音書・原始キリスト教の復活理解に対する「批判」であるとの立場。もう1つは、復活の出来事は象徴的な意味しかもっておらず、それは不可欠のものではないとの復活祭過小評価論である。
 「17節後半の、イエスが《まだ》父のもとに上げられていない、の意味をねじまげて、イエスが父のもとに上げられた《のちには》、イエスは弟子たちに《肉体的接触》を要請される、トマスに手と脇腹にさわるように指示されたことが(27節)その根拠となるとの見解が出されるが、これはこじつけの解釈でとても正しいとは言い難い。しかも『私は《もどって来て》あなたがたを私のもとに連れていく』(14:3)『私は父のもとに行くが、すぐ《もどって来る》』(同18、23)における『来る、もどって来る』は、親密な身体的接触が起こるような、地上的な存在様式での帰還では《ない》。マリアが見た方は、彼女の『師よ』との呼びかけからもわかるように、弟子たちに『もどって来ること』、ご自分との交わりを約束された、挙げられた方ではない。復活させられた方と弟子たちとの交流は、弟子たちと父のものとにもどされた方との交流として将来においてのみ実現されよう。したがってその交流は地上的な形のものではない。《私にふれるな》はマタイ28:9、ルカ24:38~43で基礎づけられた表象(復活した方は身体的接触をお気に入りでそれを要求してさえいる)に照準を向けているばかりでなく、ヨハネ自身によって語られた復活祭の出来事にも光を投じている。復活させられた方のリアルで地上的な出現の奇跡は(30節で「セーメイア・しるし」と把握されているように)《しるし》一般と同様に、相対的な価値しかもっていないし、またその本来の意味も象徴的なものである。復活祭の出来事はそもそも曖味さと矛盾をかかえている。実際身体的な手でもって接触することが禁じらるとしたら、身体的な目によって見ることはどのようにして起こりうるのか。この目で見ることは地上的な知覚ではないのか。マリアにとって復活させられた方は地上的な知覚の対象よりも劣ったものと考えられうるものなのか」(注解)。
 「我にさわるな」が言わんとしたのは、イエスが父のもとに上る前にマリアがイエスに出会った時には、イエスはいまだふれられないということではなく、むしろ主は《復活した方として一般にふれることができない》とブルトマンは主張する。このポイントは十分聞くべき解釈である。しかし他方以下の解釈に対しては異論がある。復活した方のリアルな、地上的な出現の奇跡は、ヨハネにとってしるし一般と同様《相対的な象徴的な価値しかもっていない》。マリアの物語の本来の意図は、17節後半のイエスの言葉「真実の復活祭信仰は父のもとにイエスが上ることを信じること」「十字架のつまづきを持ちこたえること」にある。しかしこの信仰は復活した方の把握可能な、地上的な出現への信仰ではない。ヨハネにとってしるし的象徴的な意味をもっているのは、復活祭の出来事ばかりでない。《イエスの復活自体ももはや決して重要な意味をもっていない。というのは十字架上のイエスの死自体がヨハネにとってイエスの高挙と栄化であるからだ》。復活物語も復活の出来事も基本的には無用のものであり、また人間の弱さによって承認されている。言い換えるとブルトマンの解釈によれば、ヨハネ伝の復活記事は「すべてが成就した」十字架の出来事(19:30)の「付加物」でしかないことになる。