建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

マリアへの復活顕現3  ヨハネ20:17~18

2001-19(2001/4/29)

マリアへの復活顕現3  ヨハネ20:17~18

 グラースはブルトマンの注解をこう批判している、20:17以下が伝統的な復活祭の出来事への明白な批判を含んでいるはずだとの説明は、決してありそうもない。ヨハネにとって、復活祭の出来事、復活祭一般が単に象徴的な意味しかもたず、どうでもいいものであったはずだとのブルトマンの見解は、ありそうもない。ヨハネが、ブルトマンが理解していたのと同様に復活祭を精神主義的象徴的に考えていたとは思わない。このポイントについてのグラースの批判は当っている。
 しかしながら復活した方に「身体的にふれる」との共観福音書の復活記事に対してヨハネが批判している、とのブルトマンの指摘は命中している、と考えられる。
 ブルトマンはトマスの物語についてこう述べている、
 「復活させられた方を肉体的に見たい、そうだ手でさわってみたい、というトマスの願いはかなえられる。しかし同時に彼は叱責されている『あなたは私を見たので信じたのか、幸いなるかな、見ないで信じる者』(20:29)。この言葉の中には啓示者が手にさわれるように現われることを願う信仰の小ささに対する批判がある」(「新約聖書神学」)。ヨハネの立場によれば、目で見てイエスの復活を信じること(弟子たちへの場合)、手でさわってイエスの復活を信じること(トマスの場合)、いずれも批判される(28~29節)。
 トマスに対して、ご自分の手の釘の痕と脇腹の槍の突き傷痕にさわるように要求されたのは復活のイエスであるが、身体的接触によってイエスの復活が真実であることを確証したいとのトマスの願い(24節)は、「あなたは私を見たので信じたのか」(29節)の言葉で批判されたことは確かであるといえる。
 ヨハネ伝の復活の出来事の特徴は、マリアに命じられた弟子たちへの委託の内容にあるマルコ16:7、マタイ28:10にあるような「ガリラヤで復活のイエスに会える」との告知とは違って、ヨハネ20:17、復活のイエスが父のもとに上っていかれる、昇天にある。この復活祭の出来事は、復活と天にのぼっていったこととみ霊の授与・聖霊降臨とが緊密に結びつけられている。復活した方は父のもとに上ったのちに、弟子たちのもとにもどってきて、み霊を与えられる。
 第三のポイントとして、復活のイエスがマリアに出会われたのが、イエスが父のもとに上る以前であったとすれば「ではいつイエスは父のもとに上られたのか」。ミハエリスは18節「マグダラのマリアは弟子たちに報告した『私は主を見ました』…」と19節「週のはじめの日の夜、…イエスは入ってきて、真ん中に進み出て、弟子たちに言われた『平安あれ』」との間に、イエスは天に上った、と解釈する。
 C・K・パレットは、17節と22節「イエスは弟子たちに息を吹きかけて言われた『聖霊を受けよ、…』」との間にイエスの昇天は起きたと想定しているが、ヨハネ自身は明言していないと解釈している(注解)。
 第四のポイント。復活したイエスとの身体的接触について。
 福音書の復活記事で、復活のイエスが「肉と骨を具有されている」と述べたのは、ルカ伝が最初である(ルカ24:39)。この線をヨハネ伝も継承・共有している。「イエスはトマスに言われた『あなたの指をもってきて私の手(の釘の痕)を見なさい…」(ヨハネ20:27)。
 この点からすれば、ヨハネ20:17「私にさわるのをやめなさい」は、復活のイエスとの《肉体的な接触という体験一般》への明白な批判である。しかしこの言葉の意味内容は決して自明ではない。第一に、この言葉は17節後半、イエスがまだ父のもとに上げられていないからを根拠にすれば、イエスの昇天の後にはイエスとの接触は可能であり許されてもいると示唆されているとも考えられるが、ブルトマンの「注解」はこの解釈を歪曲と批判した。第二に、昇天の後の、イエスへの肉体的な接触について、グラースは「再インカーナチオン」と解釈している。これでは復活のイエスの身体性はある時には「霊の体をとり、ある時には魂の体(地上的な体)をとるといった玉虫色だ」ということになる。またその聖書的根拠もあいまいである。しかも復活のイエスが「肉と骨を提示されてさわれと命じられた」こと(ルカ24:39)、トマスに手と脇腹にさわれと命じられたこと(ヨハネ20:27)はいずれも、復活のイエスが十字架にかけられたイエスと「同一の方として認知する」同一化のモチーフが強く働いている。ここでも父のもとからもどってこられた方は、肉体的な接触が起こるような地上的な存在様式でもどってきたのではない、とのブルトマンの見解のほうが説得力がある。イエスと弟子たちとの再度の、新しい結びつきは、イエスが再度の、父との結びつきが実現されてはじめて、実現される(ライトフット、パレットの「注解」)。イエスの復活は、イエスと弟子たちとの新しい緊密な結びつきを可能にした。しかしかっての肉体的な接触は、復活した方には適合しない、復活した方は一般にふれることはできない。ダマスコ途上でのパウロへの復活顕現、エマオの弟子たちへの復活顕現のように、黙示的幻視・幻聴のポイントが想起されるべきである。すなわち、パウロや後のヨハネらよりも、それよりもっと後のキリスト者にとって、復活のイエスとの交流は「復活顕現を媒介としない、言い換えるとイエスとの肉体的な接触を媒介しない交流」であって、イエスが父のもとに上って、イエスがパラクレートス・助け主、弁護者を遣わされる(16:7)、「聖霊を受けよ」(20:22)、このパラクレートス、聖霊を媒介とした交流となる。