建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ペテロと12人への顕現  第一コリント15:4~5

2001-22(2001/5/20)

ペテロと12人への顕現  第一コリント15:4~5

 ケパ・ペテロと12人への顕現についてのパウロの報告は、彼が引き継いだ伝承に由来するとみてよい。かくてパウロが実際6つの別々の顕現を列挙し、これらの顕現がその順番になっていたのは確かだとみなすことができる。
 これによってペテロの目撃証言の優位性は確実だといえる。ペテロへの顕現については他にルカ24:34だけがしるしている「主はよみがえってシモンに現われた」。ルカ伝はこの顕現がエルサレムで起きたことを、前提としているが、グラースはむしろ顕現はガリラヤで起きたものとみなし、エルサレム中心主義を採るルカが、エルサレムの状況にはめこんだとみる。カンペンハウゼンやヴィルケンス、モルトマンなどもガリラヤ顕現説をとる。ペテロへの顕現をしるしたものは付加部分であるヨハネ21章、偽典ペテロ福音書の末尾のみである。この顕現はペテロが12人の集団の代表であるのみならず、また彼らの前でその顕現があったことを意味している。
 バルトの講解をみてみよう、
 「『ケパに、そして12人に、現われたこと』(5節)とはどういうことであろうか。それはキリストが現われた、彼が自分自身を明らかに示した、彼が真実なることを証明した、彼が自ら証言を立てた、ということである。…われわれの罪のために死に、かつ三日目によみがえらされたあの方、十字架につけられ復活させられた方、歴史と人間の限界であり、一者において終末にして始原である方が<現われたのだ>。…<あの方>がなした<顕現>のみが、とにかく使信の内容である。それはパウロ自身が受け取ってさらに伝達し、コリント教会員らに思い起こさせようと欲した使信の中心的内容である。なぜならこの顕現は、<啓示>としてだけ理解されるか、さもなくばく全く理解されないかどちらかであり、終末にして始原、限界にして根源、神の救いを得させ、生命を与える言葉としてイエス・キリストがこれらの人間たちの視界の中に歩み込んだからである。そしてこの顕現、それだけが実際キリスト教の<証言・マルテュリオン>(15節)の直接的な対象である。…たとえコリントの教会員らがパウロの背後にさかのぼって、あるいは彼のかたわらを通り過ぎて、原始教会の使信そのものに突き当たりたいと願ったにしても、彼らはそれの不可解性のうちに包含されている<同一の>証言、<同一の>顕現に突き当たるだけである。したがって彼らは結局<キリストは生きています>という躓きの石に躓かざるをえないのだ。<キリストは生きています>これこそ、最高級の人間的な諸経験・体験・洞察などとの連続線上で理解されうるものでは<決してなく>、まさに教団の内部でこそキリストが生きたもうとの、復活節の使信として神の啓示の証言としてだけ理解されうるものである」。
 パウロはその顕現の時期と場所については何もしるしていない。どのような状況で復活が起こり、ペテロへの最初の顕現があったかについて一度も述べていない。4節の「三日目に」は墓への埋葬の日から数えて「三日目によみがえらされた」の意味で、けして「三日目にケパに現われた」とつなげて読むことはできない。その顕現の時と場所は、句と句の結合をとおしてのみ解明できる。
 「現われた・オプテー」は、挙げられたお方が《天から出現される》という意味合いをもっている(ミハエリス「復活した方の諸顕現」)、それゆえ埋葬されたイエスが「三日目に」墓から出現したという考えを排除する。すべての顕現がパウロの回心前に起きたこと、またペテロと12人への顕現が、定形的伝承で語られたことより前にあったことは確実である。
 「12人」は生前のイエスの召命によって弟子となった12弟子・使徒のこと。むろんイスカリオテのユダは死んでいないので、数では11人だが、いわゆる12弟子は固有名詞的に「12人」とよばれた。彼らはイエスの十字架の死、埋葬に立ち合うことなく、エルサレムから逃亡してガリラヤにもどっていたと想定できる。付加部分のヨハネ21:2~3において、ペテロが弟子仲間に「私は漁に出る」という言葉には、彼がイエスの死後故郷のガリラヤにもどって元の漁師の仕事にもどったことをうかがわせる(偽典のペテロ福音書の最終部分も)。
 「福音書の叙述によれば、復活のキリストの黙示的幻視(Vision)の現象は、ガリラヤへの《弟子たちの逃亡》を前提にしている。…(復活の)顕現は弟子たちの信仰からではなく、むしろ彼らの信仰はこれらの顕現から説明されるべきである。弟子たちはその師を裏切り、否認し、見捨てた。その理由は述べられていない。しかし彼らの恥ずべき逃亡はゼカリヤ13:7によってこう説明されている『私は羊飼いを打つであろう。羊の群れは散らされるであろう』(マルコ14:27、むろん「私」は神、「羊飼い」はキリスト、「羊の群れ」は弟子たちを指している)。ヨハネ16:32はこう述べている『あなたがたは散らされて、おのおの自分のもの(Eigen)におもむき、私を見捨ててひとりだけにするであろう』。《おのおの自分のものにおもむき》は《おのおのが自分の道を見出す》、自分の関心に従う、ことを意味するが、またおのおのが自分のガリラヤの故郷、自分の家族、自分の職業にもどることをも意味しうる。いずれにせよイエスの弟子たちは帰っていき、弟子であることをやめたのだ。しかし彼らはそこから、復活のキリストの黙示的幻視によって、予期に反して、エルサレムへと連れもどされるのである」(モルトマン「イエスキリストの道」第5章、キリスト教復活信仰の成立と独自性、強調モルトマン)。ヨハネ16:32をシュナッケンブルクの注解は「各々は自分の安泰をはかり、イエスのことをほったらかしにする」と述べる。
 弟子ガリラヤ逃亡説は、グラース、パンネンベルクらも採用している。
 他方カンペンハウゼンの見解、ペテロら弟子たちは、空虚な墓におけるみ使いの指示「イエスは死人の中からよみがえらされて、あなたがたより先にガリラヤへ《移動しておられる》[現在形]。あなたがたはそこでイエスに出会えるであろう」(マルコ16:7)に促されて《彼らは秩序をもってガリラヤに移動した》、彼らはけして逃亡したのではないとの見解(「空虚な墓」)は、支持できない。カンペンハウゼンはペテロら弟子たちのイエスへのつまずき、否認、挫折を、ルカ伝に依拠してあまりに軽く解釈しすぎている。