建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

キリスト者の復活  第一コリント15:50以下

2001-30(2001/7/15)

キリスト者の復活  第一コリント15:50以下

 キリスト者の復活についての新約聖書の箇所。
 現代のキリスト者の問題の一つには「死後のテーマ」がキリスト者の意識から脱落している点があるようだ。しかもこの脱落は自覚されることも少ない。自分たちの人生の終局、死によって私たちが「圧倒されている」からなのか。
 従来キリスト教信仰の中心テーマである「キリストの復活」については、真剣に精力的に研究されてきたが、「キリスト者の復活」については、付録的、第二義的にしか取り上げられない傾向が強かったと感じられる。この傾向が是正されてきたのは、やっと五、六年前の、1995年ころからだ。モルトマンの「神の到来」(1995)、ヴィルケンスの「死にさからう希望」(1996、彼は1970年に「復活」を書いている)などによってである。モルトマンはこの著作の第二章で「永遠の生命」について論じ、死者はどこにいるか、死者たちとの再会など、について述べている。ヴィルケンスの著作は、後半でキリスト者の復活を取り上げた。
 さてキリスト者の復活についてしるした聖書の箇所をみたい。
 第一にふまえなければならないのは、新約聖書においてキリスト者の復活についてしるした箇所は、すべて一つの基盤に基づいている。それは若干の表現上の変化があるにしても、「神はイエスを死人の中からよみがえらせたもうた」という基盤である。この基盤をぬきにしては、キリスト者の復活もありえないのだ(ヴィルケンス「死に逆らう希望」)。イエスの復活への信仰があいまいになったり、それへの疑念が多くなればなるほど、キリスト者の復活への希望もぼやけたもの、あいまいなものとなる。現代のキリスト者にとってキリスト者の復活への希望が、もしリアルなものでないとすれば、その一因はその人たちの復活信仰のあいまいさに起因していると考えられる。コリントの教会員の一部の人々のように(第一コリ15:12以下)、キリストの復活は信じているが、キリスト者の復活については拒否の態度をとるという行動は、現代のキリスト者には決して無縁ではない。
 特に「死人の復活」に関してなじみのない初代の「異邦人キリスト者ら」が、死人の復活、世の終わり、人の子の来臨といった《後期ユダヤ教の黙示思想》を「ユダヤキリスト者ら」から引き継いだ事実を想起すると、コリント教会におけるパウロの論敵らのような逸脱から、現代の私たち日本のキリスト者はどのようにして護られるか重大なテーマとなる。キリスト者の信仰、希望は決して自分が生きている間だけの事柄に限定されることはない、自分たちの死後における出来事、自分たちの来世における「キリストと共にある生」(ピリピ1章)、不死の体を着せられること(第一コリント15・50以下、第二コリント5章)、自分たちの復活への希望を含むものである。キリストの復活は信じているが、自分たちの復活は信じない、どうでもよい、という事態に陥ることだけは避けなければならない。
 キリスト者の復活の基盤について聖書はしるしている、
 「その方を神は死人の中からよみがえらせた」行伝3:15、
 「イエス・キリストは死人の中からよみがえらされた」第二テモテ2:8、
 パウロの手紙にはこうある、
 「神はみ子を死人の中からよみがえらせた」第一テサロニケ1:10、
 「神は主イエスを死人の中から復活させた」ロマ10:9、
 「キリストは3日目に死人の中からよみがえらされた」第一コリ15:4など。
 イエスを死人の中から復活させられたのは、神の業である。だからイエスが主語になる文においては述語は「よみがえらされた」と受身形、神的受身形となる。このことが重要である。というのは、キリスト者の復活は、イエスを死人の中から復活させたもうたその神によってなされるからだ。
 「イエスが死んで、復活させられたと私たちが信じるならば、神はイエスと交わりの中にある眠りについた人々をイエスと共に(勝利に)導きになられる。…イエスご自身が神のラッパによって天からおりて来られる、その時、まず、キリストにあって眠りについた者たちが復活するであろう。それから…」(第一テサロニケ4:14~16)。
 ここでパウロはテサロニケ教会員らに慰めの言葉を述べて、こう言っている、キリストの(死への)勝利は、キリストにあって眠りについた者たちを栄光へと導いていく、すなわちキリスト来臨の時の、第一の出来事は「キリストにあって眠りについたキリスト者らの復活」であり、そして第二の出来事がその時点で生きているキリスト者らの移行、天に移されることである(第一コリント15章では「変容される。変えられる」)。
 「神は主をよみがえらせた、そしてその力をとおして私たちをもよみがえらせたもうであろう。あなたがたの体がキリストの肢体であることをあなたがたは知らないのか。それなのに私がキリストの肢体をとって、遊女の肢体にすべきなのか。断じてそうではない。」(第一コリ6:14)。
 ここでは体は復活に向って規定されている。体の代わりに「私たち」がとってかわる。