建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

死人の復活4  第1テサロニケ4:16~17

2001-35(2001/8/26)

キリスト者の復活5  第1テサロニケ4:16~17

 17節後半。パウロは移された者たちと主との結びつきについて述べている「私たちはいつも主に結びつけられているであろう」。ここでは16節後半の主語「眠っている者たち」と17節の主語「生き残っている者たち、私たち」とは、共に移され、共に主との交わりに究極的な救いを体験する者として《一つに結合されている》。つまり眠っている者たちは渾然として、信仰者らの交わりへと舞もどされる。
 ただし第一コリント15:53以下においては、ここでの「移される」に変わって「変えられる」、さらにこの変容は死人の場合には「復活」、生き残る者たちの場合には「変えられる」。すなわちこの箇所では生き残る者たちと復活させられる死人との区別がいまだ明白ではないようだ。
 「いつまでもキリストと共にある」(17節後半)、これをパウロは後期ユダヤ教のメシア的救済待望から受け継いだにちがない。エチオピア・エノク64:14にはこうある「義人たちと選ばれた民とはこの人の子(メシア)と共に住み、食事や寝起きを永遠に共にするであろう」。パウロはむろんこのメシアへの救済待望をイエス・キリストとの交わりを究極の救済目標とする見解へと組み直している。
 「キリストと共にある」はピリピ1:23「私が切望しているのは、世を立ち去って、キリストと共にあることだ」にも出てきている。ここでは「キリストと共に生きる」は、主の来臨の後の事柄、ピリピ1:23では、死後の事柄としてパウロは語っているが、他方では「もし私たちがキリストと共に死ぬならば、キリストと共に生きるであろうと、信じる」ロマ6:8「私たちは、あなたがたに対しては神の力によって、キリストと共に生きるであろう」第二コリント13:4では、確かに未来形の動詞を用いてはいるが、地上におけるキリスト者の生きざまとして述べている。パウロは「キリストと共にある」との終末論的待望をみ子における神の行動に関する包括的な問いによって現実化している、「どうして神がみ子と共にすべてのものを私たちにくださらないことがあるだろうか」ロマ8:32。キリスト者の救いへの希望は、私たちが信仰において現実に体験する、キリストの生命に根拠づけられる。
 テサロニケ教会の人々は《死をくぐりぬけた限りない生命への希望》が実現しうることを理解していなかった。パウロは彼らに主の来臨をきわめて近いものとして提示した。主の来臨についてのパウロの見解は、事実超越的な希望に対する強固な土台である。死は生命を絶やすものであり、同時にあらゆる将来をも絶やすものである。死は、私たちのおよそあらゆる救いの体験をものともせず、最高度に強力に私たちの生に定められた滅びを思い起こさせる。パウロは、黙示文学的な伝統に依拠して、主の来臨における死人のよみがえりの出来事について語り、今は亡き教会員らの将来的な復活と生ける教会らがもろともにキリストと共なる生活を説いた。
 さてこの箇所のテーマは《死をかいくぐった限りなき生命への希望》をいだくことにあるが、この箇所でその基礎となっているのは、歴史の限界、すなわち主の来臨についての正しい認識である。この限りない生命への希望をテサロニケ教会のキリスト者はもちえなかった。それは彼らが歴史への展望、主の来臨について思い違いもしていた、その見解が念頭になかったからだ。この希望は主の来臨への正しい認識によらないでは成立しえないものだ。言い換えると、原始キリスト教パウロとが、後期ユダヤ教の黙示思想から受け継いだ主の(人の子の)来臨と死人の復活の思想、主の来臨のおりに死人が復活させられるという思想(Ⅰテサ4:16)においては、死人の復活、いまなお生ける者にとっての死をくぐり抜けた限りなき永遠の生命への希望は、主の来臨の出来事と緊密に結びついていて、その出来事に基礎づけられている。それゆえ主の来臨をカッコにいれて、どうでもよいものとして捨て去り、他方で死の彼方の限りなき永違の生命のみを採用して重視するという立場は成立しない。テサロニケ教会も、他の異邦人教会も、日本のキリスト者も、主の来臨とそのもとでの死人の復活との双方を受け入れるのでなければ、パウロが説いている「死をくぐりぬけた限りなき生命、いつもキリストと共にある」との自分たちにピンとくるような見解だけを恣意的につまんでくる、ということはできない。「死人の復活がなければ、彼らは滅び去つてしまっいたことになる」(第一コリント15:18)このテーマがこの第一テサ4:13の背景を形成しているが、これはパウロが現代のキリスト者につきつけた問いかけであり、かつ主の来臨において、亡きキリスト者らが優先的に復活させられて、いつまでもキリストと共にある、これがその問いかけへのパウロ自身による回答である。