建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

キリスト者の復活3  第一コリント15:54~55

2001-44(2001/10/28)

キリスト者の復活3  第一コリント15:54~55

 54節の旧約聖書の引用箇所「死は勝利に飲みつくされてしまった」は、ヘブル語聖書のイザヤ25:8「主は永遠に死を滅ぼされる」(周知のように、ここは第一イザヤ自身よりのちの後期のユダヤ教の時期のイザヤ黙示録の一部)。パウロの引用はこれとも70人訳とも異なっている。
 「死は勝利に飲みつくされた」についてのルターの解釈。
 「『死は勝利に飲みつくされてしまった』、このことはまだ起きてはいない。しかし起こりつつある。やがてここに書かれているとおりになるであろう。『勝利』とはキリストの復活である。われわれにおいてはいまだ実現していないが、勝利は確かにある。洗礼と福音とによってそれはわれわれのものとなる。…死はわれわれを屈伏させわれわれに勝利し、われわれを地中に送り込む。にもかかわらずゲームは逆転する。われわれを殺し、埋葬する死は、再び殺し葬ることはない。われわれは生命の中に、生命はわれわれの中にとどまり、反対に死を追放する。今死は主人であり、支配者であるが、《その時には》死は駆逐され、葬られてしまう。特に洗礼を受け、キリストを信じる人々にとってはこうなるのである。われわれの力によってそうなるのではなく、われわれに与えられたキリストの勝利によってそうなるのである。…」(「講解」德善訳)。
 イザヤ25:8で約束された事柄、死への嘲笑は、パウロの場合もいまだ実現してはいない。現に死は今なお刺をもっていてその刺が抜かるのは将来のことである。「死への勝利の歌」がすでに今歌われ、コリント教会員に歌って聞かせられるとしたら、その歌、死の嘲笑は、死者たちのよみがえりの《将来》の先取りである。「聖書の言葉が《成就されるであろう》」の動詞の《未来形》が意味するするのはそのことである。しかも死が、もはや口をつぐむのではなく、むしろ決定的な「飲み込まれれた」によって、すでに今死の支配力はそがれ始めている。キリストの復活という死への勝利をもって。この「死が飲み込まれてしまった」との比喩の意味は、決して明白とはいえない。「猛獣によって餌が飲み込まれるように」との解釈もあり、他方「海の渦に引き込まれるように」との解釈もある。どちらかというと、ここでは、死が引き込まれれ滅び去る、海の渦に飲み込まれるようにとの、比喩的解釈のほうがよい(シュラーゲ)。死はついに勝利に飲み込まれて、完全に征服させられて、完全に抹殺されてしまう。死ぬべきものが生命に引き込まれ、その結果が死に対する決定的な勝利となる。「死ぬべきものとして、見よ、私たちは生きている」(第二コリ6:9)といった信仰告白がなされているうちは、死への勝利はいまだ獲得されてはいない。死がその力を終局的普遍的に失った時にはじめて、死への勝利は獲得される。