建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

キリスト者の復活4  第一コリ15:55

2001-45(2001/11/4)

キリスト者の復活4  第一コリ15:55

 ここで、キリストによる「死の征服」の意味を明らかにする必要がある。「キリスト・イエスは《死を征服し》福音をとおして生命と不死とを明らかにした」(第二テモテ1:10)。パウロもテモデ書もキリストの復活が《死に対する決定的勝利》であったことを告げている。しかしながらこの勝利は《死の滅亡を意味していない》。この世にはいまなお厳然として死は存在しているからだ。死の最終的な滅亡は、終末の時に起きる。「それから終末…。最後の敵として死が《滅ぼされる》」(第一コリ15:24、26)。「滅ぼされる」は神的受身形で主体は、キリストではなく、むしろ神である。「究極的に死を滅ぼす主体は神ご自身であり、かつ神のみである」(シュラーゲ、注解)。したがって54~55節を読み進む場合、この区別「キリストによる死の征服」と終末時における「神による死の滅亡」との区別をふまえておくことは重要だ。
 55節の旧約聖書からの引用は、ホセア13:14。ヘブル語聖書では「死よ、おまえの呪いはどこにあるのか。陰府よ、おまえの滅びはどこにあるのか」。70人訳では「死よ、おまえの罰はどこにあるのか。陰府よ、おまえの刺はどこにあるのか」。パウロの引用はこのいずれでもない。パウロはここで「死」を人格化している。「刺」は行伝26:14に「刺の棒」とあり、体罰、拷問のためのもので、死の支配と力の象徴である。ここではこの刺は「罪のことである」。「死の剌は罪である」(56節)。罪は戒め(律法)をとおして機会をえて人間に働きかけ、人間に罪を犯させる。人間は罪を犯したゆえに死ぬ。罪の報いは死であるからだ(ロマ6:23)。この二つの旧約の引用によって、パウロが意図しているのは「死への敗北宣言、死への嘲笑」である。この「死への嘲笑」は、人間の側からは実現できない。
 ルタ一の講解は、現代の注解書がふれていない内容を展開しているので引用したい。「その時には死に障害がおかれる。死は永遠に飲込まれてしまった、54節。今死はわれわれに逆らって歌う、私に歯向うがよい、おまえが逃れうるかどうか見ていようと。しかしその時になると逆転が起きる。『死は勝利に飲込まれてしまった』。すなわちキリストの復活に飲込まれてしまうのである。おまえはどこを刺せるというのか。陰府よ、おまえはこれ以上勝つことはできない。キリストにおいて事は始まったのである。キリストはご自分の体において死を根こそぎになさった。これが、キリストを信じる者にお与えくだった勝利であり、こうしてわれわれはキリストが復活祭に獲得なさったと同じ勝利を終りの日のその時もつに至るのだ」。