建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

キリスト者の復活6  第一コリント15:55~56

2001-47(2001/11/18)

キリスト者の復活6  第一コリント15:55~56

 さてバルトの講解をみてみよう。
 「実際人生にまとわりついている死に<停まれ>が命じられるためには、人間に最後終極的に目標を差し込む神の奇跡が必要である。<そこからして>死が嘲笑されうるし、嘲笑されねばならない。…何が《復活の現実》を停滞させているのか、何がわれわれを54節の《その時》[よみがらされる時]から《分離している》のか、をわれわれはちゃんと知つている。すなわち 『死のとげは罪である』(56節)ことを。われわれはアダムの子らとして彼の《堕罪》に彼の神への《謀反》にわれわれの全実存をもって参与しているがゆえに、またわれわれの現存在だけでなく、それをもってわれわれが神との差異性においてある自己自身を肯定する意志が(ロマ5:12以下)、行為としてのわれわれの生活があの二元論[ロマ7:25、一方では神の律法に仕えつつ、他方では罪の律法に仕えている]を基礎づけているがゆえに、《死が勝利するのだ》。…われわれには何が残っているのか。それは『神に感謝せよ』(57節)ということだけである。『われわれの主イエス・キリストによって』神はわれわれに勝利を《与えてくださっている》。勝利を《与えてくださっている方に》という《現在形》に注意せよ。神の賜物として勝利《復活の現実》は現在なのである。この《勝利》がわれわれには神の賜物であり、『われらの主イエス・キリストによって』《希望》においてある現在であり、かつそうであり続けるということにいっさいがかかっている」(強調、バルト)。
 バルトが指摘した、57節の「主イエス・キリストをとおして私たちに勝利を《与えてくださっている》方」における「与えてくださっている」が現在形であるポイント。
 この現在形はむろん《未来の事柄を意味している》と把握することはできる。パウロのいう《勝利》はイエスの復活を指していた(ルタ一)。したがってイエス・キリストの復活においてはこの死への勝利は「すでに」実現したといえる。しかし私たちキリスト者にとってはこの勝利は「いまだ」実現されていない。この「すでに」と「いまだ」 との関連をどう把握するかがパウロにとっても私たちにとっても眼目となる。死への勝利の歌(「死よ、おまえの勝利はどこにあるこか」55節)の歌声が響く時には、死に対する決定的な勝利がもたらされている、とパウロは考えていた印象がある。しかしこの勝利はいまだきていない。この勝利は「死のとげ」すなわち罪が究極的に征服され、死のとげが引き抜かれた時に初めて、完成される。しかしながらここでパウロが述べているのは死への勝利の、単なる「先取り」ではない。むしろこの死への勝利はいまだ実現されてはいないが、「死への将来的な究極的な勝利の現実が《現在すでに》提供されている」と解釈できる、シュラーゲ。