建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

死後キリストと共に2  ピリピ1:22~23

2001-49(2001/12/2)

死後キリストと共に2  ピリピ1:22~23

 バルトの注解。「パウロは、一般に《死後の生》について語ったのではなく、《キリストの生》について語っており、またおそらく彼の目前に迫っている死がこの生にとって何を意味するかについて語っている。…パウロははっきり告白している『どちらを選べばよいか、わからない』と(1:22)。彼にわかっているのはこのことである、『生きるにも、死ぬにも主のものである』(ロマ14:8)『覚めていても、眠っていても、主と共に生きている』(第一テサ5:10)。彼は同時にキリストと共に死ぬことのほうが《もっと大きな》ことだ、ということを知つている。そのほうがどんなに善いか知れない。なぜならそれは、キリストが彼の身体生活において偉大となりうる(21節)、最後のものであり、完成された行為だからである」。
 アルバート・シュワイツアーは、ここをパウロが「死後ただちによみがらされてキリストのもとに移される」と考えていた、と解釈し、しかも彼は殉教の死をとげた場合には《死後ただちに復活させられて、キリストと共にあることが実現する》と考えていたとみる。
 「パウロは自分の囚われの状態が殉教の死をもって終るかもしれないことを考えに入れざるをえない。この場合にこそ、彼は《死後ただちによみがえってキリストのもとに移されること》を待ち望んでいる。自分の殉教の死の場合には《特別の種類の復活》が与えられることを彼は待ち望んでいる。…起こりうるかもしれない死刑の宣告という思いに彼の意識がいかに強く関わっていることは、彼が自分を諸教会のために献げられる犠牲であるとみなしていることからも、明らかである」(「パウロ神秘主義」1930、武藤、岸田訳)。パウロ自身は自分の殉教をこう受けとめていた。「しかしたとえあなたがたの信仰のいけにえの儀式に、私が血を流したとしても、私は喜ぶ」(ピリピ2:17)。
 シュワイツアーの解釈の特徴は、このパウロの言葉を第二コリント12章の「パラダイスへ移された体験」と関連づける点にある。
 「しかし主の幻(オプタシア)と啓示を私は語りたい。私はキリストにある一人の人間を知つている。この人は一四年前、《第三の天に移された》ーーそれが体においてか[体のままか]私は知らない、体の外部においてであったか、私は知らない、神がご存知である。この人は《パラダイスに移されて》、口では言えない、人間には語ることが許されない言葉を聞いた」(第二コリ12・2~4、ブルトマン訳)。
 シュワイツアーはパウロと天に移されたエノクとを関連づけている。「この後、エノクの名は、乾いた大地に住む者たちの中から、あの人の子、霊魂の主のみもとに生きながら引き上げられた」(後期ユダヤ教の黙示文学、エチオピアエノク70:1)。ヘブル11:5「エノクは信仰によって死をみないように、移された。神が彼を移されたので彼は見えなくなった」。シュヴァイツアーはいう、
 「パウロは他の死者たちと同じような仕方でよみがえらされるのではなく、死の安らいから目覚める時《ただちに朽ちない体を所有し》、またその体でイエスと会うために《空中に移される》と想定していた(第一テサ4:17)。それゆえイエスのもとに移されるという思想は、キリストにあって死んだ者の復活という観念自体のうちにすでに含まれている。…すでに天にまで移される体験をしたと自覚しているパウロは[第二コリ12章]、自分の身に起こるかもしれない殉教を予想して、キリストにあって死んだ他の者たちよりも《さらにすぐれた仕方における復活を体験するとの期待》におそらく到達できたであろう。かくしてパウロにおいては、《自分の殉教の死の場合に、ただちに個人としてよみがえらされ、キリストのもとに移されるとの希望が》生じる」。