建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ローマ帝国への叛乱指導者のポイント  ヨハネ18:33~36

2002-9(2002/3/10)

ローマ帝国への叛乱指導者のポイント  ヨハネ18:33~36

 ユダヤ最高法院はイエスに死刑の判決を出した(マルコ14:64、並行)。ところが最高法院はイエスを総督ピラトに渡した。ユダヤの法では瀆神罪には石打ちの死刑が定められていた(ヨハネ18:32、行伝7:54以下ステパノの殉教)。重大な宗教犯に対する裁判権と判決権とは最高法院が持っていた、しかしながら最高法院は死刑の執行権をもっていなかった「私たちには人を死刑に処する権限がない」(ヨハネ18:31)。死刑の執行権はローマの総督ピラトがもっていた。しかし総督は最高法院の判決をふまえた死刑の執行のみでは動かない。また宗教犯という告発も取り上げなかった。総督の管轄する裁判は、いわゆる「政治犯、反ローマ的な暴動の謀議、叛乱罪」に限定されていた。総督の審問の中心ポイントは「あなたはユダヤ人の王なのか」である(ヨハネ18:33、37、マルコ15:2、マタイ27:11)。「ユダヤ人の王」という表現は「イスラエルの王」のローマ的な言い回し。「メシア告白」ではいまだ「宗教犯」であって総督はその告発を取り上げないが、自分を「ユダヤ入の王」と称した者があるとすれば、総督はその告発を取り上げざるをえない。ユダヤ教当局は、この微妙なニュアンスの違いを把握していた。このポイントをルカ12:2が伝えている「最高法院は、イエスをピラトの前に引いていって『この人は民衆を惑わし、カイザルに税金を納めることを禁じ、また 《自分がキリスト(メシア)すなわち王である》と言っているのを確かめました』と告発し始めた」。宗教的なメシアを政治的な王へと敷衍・拡大したのだ。しかし総督ピラトは直接イエスを審問して、そこに政治的に危険なものを見い出せなかった。むしろイエスの「王たる告白」に《特異な宗教性》を感じ取った。「私の国(バシレイア)はこの世のものではない」 (ヨハネ18:36) というイエスの言葉にある「バシレイア」は「王国・王的支配」を意味している。このバシレイアが「この世のものではない」とはイエスのみ国は、霊的、宗教的な性格をもつもので(時間的に「現在の世」に対する「来るべき世」の意味ではなく、空間的に地下の世界でも、地上でもない、天上の世界に属すとの意味合い、パレットの「ヨハネ伝注解」)。この世的な手段、武器をもって叛乱を起こし権力に抵抗して戦うという事柄と無縁であるとの意味である。ピラトの審問「あなたはユダヤ人の王なのか」に対するイエスの回答は、ここでも「私が王だと言っているのは、あなただ」とある(ヨハネ18:37、マルコ15:2、マタイ27:11)。これも審問に対する「間接的な肯定」である  (ブルトマン「注解」など)。しかしながらピラトはこの回答によってもイエスを「反ローマ的な反乱扇動者ではない」と判定した、「私はこの人に何の罪も見い出せない」(ヨハネ18:38、19:2、4、ルカ23:4)。むしろ「無害な宗教的夢想家」と判断したようだ(プリンツラー)。そこでピラトはイエスを釈放しようとした(ヨハネ19:12)。
 にもかかわらずピラトはユダヤ教当局者らの脅しに屈した。「もしあなたがこの人を赦すならば、あなたはカイザルの友ではない。自分を王とする者は誰でもカイザルに反抗する者だ」(ヨハネ19:13)。もしイエスを釈放したら、ピラトをカイザルに直訴すると当局者らはピラトを脅したのだ(へロデ大王の長男ユダヤの領主アケラオも彼らの直訴で追放処分となったこと、ピラトが総督としてエルサレムに入場した当時ローマ軍の軍旗をおろさせず、皇帝の像の徽章を携行した時も皇帝に直訴され、ユダヤ人の激しい抵抗にあったことをピラト自身も自覚していたろう)。それゆえこの脅しは有効であった。ピラトは自分の地位の安泰のほうをとって、イエスを見捨てたのだ。
 ピラトによるイエスへの「死刑判決の宣告」は明記さていないが、死刑にするためにイエスを部下らに「引き渡した」(19:16)行動が、死刑判決の言い換えと解釈されている。十字架刑は、叛乱奴隷や国家に反逆した者、その扇動者に課せられた極刑であった。
 「イエスのメシア要求(告白)は、政治的にみればきわめて危険なものであった。イエスの罪状書き(「ユダヤ人の王」マタイ27:37、並行)は政治的犯罪を明記している。イエスのメシア要求は、ローマの支配に直接抵触するような犯罪であった。すなわちそのメシア要求は、ローマの法廷によって断罪されなければならない謀反を意味していた。ユリウス法典によれば、王たろうとする要求は叛乱の原因となるかぎり、死に値すると宣告された」一モルトマン「'イエス・キリストの道」)。
 他方、ユダヤ教当局・最高法院にとっては、イエスの十字架刑は不可欠のものであった。瀆神者としてイエスを「木に架ける」ことで、イエスを「神に呪われた者」とすることが、彼らの意図であったからだ。「木に架けられた者は神から現われた者である」(申命21:23)。