建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

復活からみたイエスの十字架の意味  ロマ8:32

2002-11(2002/3/31)

復活からみたイエスの十字架の意味  ロマ8:32

大祭司カヤパと総督ピラトの有罪判決に対する神の判決
 イエスの復活は、イエスに対する「歴史的な訴訟」すなわちイエスに対してはられたレッテル「瀆神者」「反乱指導者」「神に見捨てられた者」に関して《神ご自身の側からの判決、回答》であった。マルコ、マタイがしるした最後の叫び「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」との神義論的問いへの回答でもあった。「あなたがた(ユダヤ人)は、聖にして義なるお方(イエス)を否認し、人殺し(バラバ)を赦されるように嘆願した。あなたがたは生命の先駈けであるお方を殺してしまった 。このお方を神は死人の中からよみがえらせた。私たちはそのことの証人である」(行伝3:14以下、ペテロの説教、ヘンヒェン訳)。
 イエスの復活は、死人の復活があるかないか、奇跡一般が起こるかどうかを自然科学的な地平で問うテーマではない。むしろ古代ギリシャ古代イスラエルで発せられた、歴史における神の正義の支配に対する問いかけ、神義論のテーマと関連している。生前のイエスの宣教、癒し、全権要求(イエスを受け入れる人々を神は受け入れられる)、神の慈しみ(神の国)の到来の告知は、もしイエスの復活がなかったとしたら、共に十字架つけられた熱心党員らと同様に、十字架の死をもって挫折し終ってしまったであろう。先の行伝の箇所はイエスの復活が、生前のイエスの活動に対する神のしかり、全面的な是認であったことを示している。
 「旧約聖書に見い出される個人の復活の信仰への接近は、正義の成就に対する要求に帰すべきものである」(フオン・ラート「旧約聖書神学」第一巻)。「不死性を切り開くことは、ユダヤ教においては預言者ダニエルをとおして初めて起こった。そしてその背後の不死性の動因は、地上における長命や幸せな生活への、昔からの願望から超越的に引き延ばされてきたものではない。むしろこの動因はヨブと預言者から、《義への渇望から》きたのだ。死後も生き続けることへの信仰は、地上における神の正義に対する疑問を鎮めるための手段の一つとなった。なかんずく復活信仰はそれ自体、法的道徳的なものとなった。…熱望された復活に対する根本モチーフは今や威嚇的となる。それは《失われた地上の審判を[その人の死後において]回復すること》を意味するからだ」(ブロッホ「希望の原理」)。
 ブロッホのこの見解について、モルトマンはこう述べている、
 「多くの神学者らよりもE・ブロッホのほうがより正しく理解したことだが 復活への希望は、けして幸福への人間的な希望ではなく、むしろ神の義への待望を表現している。したがってその希望は神と神の法とのために神に対する希望を述べたものである」(「十字架につけられた神」)。イエスの復活のもつこの「神の義への待望」という核心を明らかにしたのは、モルトマンの業績である。
 イエスが神に見捨てられて死んだこと、その十字架の死の時点で発せられたイエスのあの叫びについても、新しい視点から解釈が可能となるはずである。
 イエスの苦難と十字架の死の時点では、《弟子たち》はその救済的な意味を理解できなかった、と思われる。イエスの苦難と十字架刑において弟子たちの信仰が打ちこわされた点についてはすでに言及した(マルコ14:27)。ではどのようにして、イエスの十字架の死のもつ救済的な意味が理解されるようになったのか。それは、イエスの復活をとおしてであった。
 「キリストの死人からの復活の光に照らして初めて、キリストの死はただ一回的な救済の意味を獲得する」(モルトマン「十字架につけられた神」)。「キリスは『神の力によって生きておられる』(第二コリント13:4)ということが、初めてキリストの死と十字架を救いの出来事にしたのである」(レンクシュトルフ「ルカ注解」)、「ローマ4:25「イエスは私たちの過ちのために、死に渡され、私たちが義とされるために復活させられた方である]、第一コリント15:3[「キリストは私たちの罪のために死んだこと」]などの言葉によって知られるのは、十字架と復活との相互関係であり、両者の即事的な関係によって、イエスの死の意味は復活祭によって初めて解明される」(シュラーゲ「新約聖書におけるキリストの死の理解」)。
 「イエスの十字架の死」について、パウロは二つのポイントを述べている。
 一つはロマ8:32「神はご自身のみ子をさえ惜しまないで、私たちすべての者のために彼を(十字架へと)《引き渡された》。その神がどうしてみ子と共に万物を私たちに賜らないことがあろうか」。ロマ4:25「私たちの過ちのために《死に渡された》お方」。ここにある「渡す・ディドマイ、引き渡す・バラディドマイ」は、受難用語で、放棄する、見捨てる、引き渡す、という意味である。
 「神がご自分のみ子を『(死に)引き渡される』ということは、新約聖書の前代未聞の陳述に属す。『引き渡す』を『派遣、贈与』という意味に弱めてはならない。『引き渡す』ということにおいて出来事となっているのは、キリストが父により全く意図的に死の運命へと委ねられたこと、神がキリストを破壊するもろもろの力(ローマの総督であれ、刑の執行者であれ)へと服させること、神がキリストを罪とされたこと(第二コリ5:21「神は罪を知らない方を私たちのために罪とされた」)、キリストが神から呪われた者であること(ガラ3:13「キリストは自ら私たちのために呪いとなられた」)である」(ポプケス、モルトマン「十字架につけられた神」から引用)。
 もう一つは、ガラ2:20「神のみ子は私を愛し私のために《ご自分を放棄された》」(参照エペソ5:25「キリストが教会を愛して、そのために《ご自分を(死に)引き渡された》ように」)。これらの箇所では、イエスの自己放棄が述べられている。
 「パウロはイエスの神の子性を復活の栄光という色彩をもってではなく、むしろイエスの苦難と十字架の死をもって描いている。ここでは神のみ子は神なき、神に見捨てられた世界における神の代理者、啓示者である。つまり神はイエスの放棄と苦難と十字架の死において代理され、ご自分を啓示される。しかし神がご自分を代理され啓示されるまさしくその場合には、神はご自分とイエスを同一化され、本体を明らかにされる。それゆえパウロはこう言うことができた。『神はキリストにおいて存在しておられた』(第二コリ5:19)。(モルトマン、前掲書)。