建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

終末論の研究史1&2

2002-24(2002/6/30)

終末論の研究史1(終末論イエス)  第一ペテロ1:3~4

 「終わりのこと」という論文集(2002)の中の「新約聖書の終末論をめぐる現在の論争」(ハルトグレン)を取り上げたい。その論文には終末論に関する簡単なスケッチが出ている。
 終末論的な預言者としてイエスの信頼すべき姿を定式化し一般化したのは、ドイツの新約学者ヨハネス・ヴァイス(1863~1914)である。1892年に出た63ページの薄い本で、彼は、「イエス神の国の理念の完全に黙示文学的終末論的な性格」を明らかにした(「神の国についてのイエスの宣教」)。「黙示思想」によって、彼はイエスの宣教の特徴を、現在の世の来るべき世界規模の破壊、最後の審判、罪を宣告された人々の滅びと救われるべき人々への永遠の祝福と考えていた(ヴァイス)。
 彼はその時代のドイツの自由主義的神学(その中には彼の義父、アルブレヒト・リッチュル(1822~89)も含まれていたが)に対して強く反対した。リッチュルや他の人々にとってキリスト教の宗教は第一義的には、宗教的な体験に関心をもっていた。イエスは偉大なる教師、実例にすぎなかった。イエス神の国について語ったとき、それを彼らはイエスが何か「主観的な内面のこと」、地上における人間関係の「表面的な倫理的理想」を語ったのだと考えた。このような見解、その用語・終末論の歴史的な意味を把握しあからさまにしたのに対して、ヴァイスは、異論を唱えて釈義的な根拠を示して別の見解を出した。
 「神の国は、この世界に正反対の反対する、ラディカルな超世界的な内容である。これはイエスの心において神の国の《世界内的》発展については全く語っていないということを言おうとしてしている」。
 ヴァイスは、イエスの終末論についての見解をこう総括している、
1、イエス神の国の切追を理解している。そして神の国は近づいていると宣言した。
2、神ご自身以外にはみ国をもたらすことはできない。
3、み国が来る時、神は悪が支配しようとしている、この古い世を破壊するであろう。そして新しい世を創造されるであろう。

2002-25(2002/7/7)

終末論研究の歴史2  マタイ12:28

 「イエスが考えたとおり、神の国は、いつも実在的なメシア的なみ国である。このみ国は人が入っていく場所として、あるいは人が与かる国、あるいは天からやってくる宝として、通常描かれているが」。
 ヨハネス・ヴァイスは、19世紀末に、この小著作によって、イエスの説教における神の国の概念の理解にとってばかりでなく、イエスの伝道とメッセージの一般的な大要の理解にとっても、現在に対して論題を提起した。これはドイツの新約聖書学の特別の例である。

アルバートシュヴァイツアーは、ヴァイスの著作の意義を把握し、かつ20世紀初めにそれを有名にした最初の人であった、「イエス研究史」(1906、邦訳あり)。さらにヴァイスの見解は20世紀半ば、ルドルフ・ブルトマンとその弟子たちによって広められるようになった。ブルトマンはヴァイスをほめて、イエスの宣教に関するヴァイスの見解は「彼の批判者たちを圧倒して勝利した」(ヴァイスの著作の英語版に対するブルトマンの「序文」)。さらにブルトマンの「新約聖書神学」(1948)における文章においても、イエスの使信に関してヴァイスの見解がこだましている。
 「イエスの使信の支配的な概念は《神の国》である。イエスはその直接の、切迫し、いますでに明らかにされている出現を告知する。神の国は終末論的概念である。イエスが意図しているのは、従来の世界の歩みに終わりをもたらし世界がそのもとで呻吟しているすべてのサタン的なもの、神に反するものを滅ぼし、かくしてすべての苦しみと悩みとを終わらせ、預言者の約束の成就を待望する神の民に救いをもたらすような神の統治である。神の国の到来は、奇跡的な出来事であり、人間の協力なしに、ただ神によってのみ出現される出来事である」(ブルマン前掲書、第二巻)。
 しかしある意味でブルトマンは一方の手で与えたものを、非神話化の解釈学的プログラムによって他方の手で取り去った。そのプログラムで彼はイエスの神話論的説教の「深い意味」を期待していた。そしてその意味とは「私たちすべてにとって真に切追した《神の将来に打ち開かれている》こと」である(「イエス・キリストと神話論」1958、ブルトマンに関しては改めて取り上げたい)。


 第二 弁証法神学者たち、カール・バルトの「ロマ書講解」1921、邦訳あり、パウル・アルトハウス「最後の事柄」(初版1922、1933、第四版)は別の機会にゆずるが両者ともに「現在的終末論」の立場であった。
 この(第二)に区分されるのは、イギリスのC・H・ドッドがいる。ドッドは、イエスが終末論的み国の預言者であったとの見解に対して、画期的で高度の挑戦の声を上げた。「神の国の譬え」(1935、邦訳あり)である。彼は新しい用語「実現された終末論」を作り出した。彼はこう主張した、イエスがみ国について宣教した時、将来の現実についてではなく、むしろ現在に作用している(み国の)力について語ったのだ、と。またこう述べている「エスカトン・終末は将来のものを現在のものへと動かす、期待の領域から実現された体験領域へと動かす」。彼の前掲書から三つのポイントだけに言及したい。
 第一に、実現化した終末論
 ドッドは「神の国はあなたがたのところに来たのである」(マタイ12:28、ルカ1:20)などの解釈において、この箇所が神の国が現実に到来している事実を表現したものとみなした(前掲書、第二章、室野訳)。
 A・シュヴァイツァーの「徹底的終末論」の立場に対して、ドッドは、ルカ16:16「律法と預言書の時代は、洗礼者ヨハネの時までであり、その時以来神の国の福音は伝えられ、誰もかれもその中に殺到している」などに依拠してこう批判した、
 「この箇所は、イエスが多くの時代の希望であった、神の国がついに到来したことを宣言したものと理解されている。神の国は単に問近かに来ているということばかりでなく、ここにあるのである。…イエスの教えを解く鍵を『徹底的終末論』に見い出すと表明する学派[シュヴァイツアーら]は実際妥協を提案している。神の国の到来を未来の事と考えている一連の箇所とその到来を現在の事と考える他の一連の箇所とを前にして、彼らは神の国がすぐに、聞近かに到来するとの解釈を主張した。しかしこれは解決にはならない。それらの箇所は、明らかに神の国が来てしまっていると宣言している(からだ)」(前掲書、第二章「神の国」)。