建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

終末論研究の歴史4  A・シュヴァイツアー

2002-27(2002/7/21)

終末論研究の歴史4  A・シュヴァイツアー  マタイ11:12

 「イエス研究史」(1906、第一版序文)でシュヴァイツアーはこうのべている
 「四方八方が静かであった。その時洗礼者ヨハネが現われて叫ぶ。悔い改めよ。神の国は近づいた!その少し後でご自分を来たるべき人の子とみなしておられたイエスが、世界の車輪に介入し、それを動かし最後の回転をさせて世界の自然的な歴史を終らせようとされる。それがうまくいかので、イエスはそれにとりつく。それが回転しイエスを粉砕する。《イエスは終末論をもたらす代わりに、終末論を滅ぼした》。世界の車輪はさらに回転し、唯一で測りがたく偉大な人間、人類の霊的支配者として把握されるべき方《歴史に暴力を加える》には十分であったこの方の、亡骸の断片は、今もなお追加されている。それがイエスの勝利であり、支配である」と。
 この箇所は以後に出た1913年の第二版、1950年の第六版では削除されているので、目に入ることがない。引用はモルトマン「希望の神学」1964、第一章の1「終末論の発見とその無効性」に引用されたもの。膨大な「イエス研究史」(邦訳では全三巻1200ページ)から中心的なポイントを取り出して批評することは難しい作業である。シュヴァイツアーは先の序文で「イエスは終末論をもたらす代わりに、終末論を滅ぼした」と述べたが、この見解は真実であろうか。シュヴァイツアーが展開しているのは、イエスの終末論の解体の過程のようにみえる。ここではモルトマンの「神の到来」(1995)I「今日の終末論」を手がかりに論じたい。
 シュヴァイツアーによれば、イエスは間もない神の国の超越的な介入を待望していた。ルカ10章は述べている「その後、主は他の72人を定めてご自分で行こうとされていた各々の町と場所に彼らを二人ずつ派遣された…神の国があなたがたに近づいた、と人々に言いなさい」)イエスはその弟子たちがもどってくることは期待していなかった(シュヴァイツアー、前掲書二一章)。
 期待に反して第子たちがもどって来た時(ルカ10:17以下)[第一の失望]、イエスは自分がメシア的な患難を自ら担うならば、神のみ心にそって信仰者らからこの患難を免れさせるとの確信に達した。かくてマタイ11:12「洗礼者ヨ・ハネの時期から現在に至るまで《天国は暴力をこうむっている》」(ルツ訳)と言われているように、イエスは、ご自分でメシア的な苦難を引き受けることをとおして、神の国を<強引に引き寄せる>行動に着手した。イエスエルサレムにおもむき、その地で神の判決を強要しようとした。<歴史の中に終未論を強引に引き入れることは、同時に終未論の廃棄であって、終末論の肯定であると同時に放棄である>(前掲の章)。しかしゴルゴタでのイエスの死の後にも終末がやって来なかった時、その終末論的な近き待望に第二の歴史的な失望が起きた(前掲の章「イエスの受難の秘密」)。二千年以来停滞していた<来臨遅延>はキリスト教的終末論を不可能にした。
 イエスの終末論的な[神の国への]近き待望は歴史への暴力行為であった。しかし歴史の車輪は、冷淡にもさらに回転し、世界史は(判断力のある人には誰にもがわかるように)これからも運行していくであろう。それに基づいてシュヴァイツアーは自分の<史的イエス>(この史的イエスは自分の終末論的な熱狂主義を座礁させたものだが)を見捨てて、イエスの終末論の背後に、イエスの<倫理的な意志>と<世界の倫理的な終末完成>への希望を探求した。弟子たちは、復活祭の顕現に基づいて、新しい希望の確信と[来臨の]近き待望へと導かれた。しかし第二世代においても終りが来なかった時(第二ペテロ3:4「主の来臨の約束はどうなったのか…」)。先祖たち・第一世代が眠ってからすべてが創造の始めのままではないか」)、彼らの失望は決定的となった[第三の失望]。
 ここで一大変化が起きたとシュヴァイツアーは考える。すなわち弟子たちはイエスの宗教からあらゆる終末論的な待望を奪い取って、それを教会的ー礼典的宗教へと変質させてしまったのだ。神の将来に対するメシア的な希望の代わりに、教会的に媒介された永遠の現在が登場してきた。
 以上のようにシュヴァイツアーは、イエスの終末論をひとたびは知りつつも、その終末論に恐れをなして、なじみのない原始キリスト教から、彼になじみの一九世紀の文化的キリスト教へともどっていった。無限の時間の線とずっと継続する歴史という進歩信仰との表象の助けでもって、彼はイエスと原始キリスト教との終末論を反駁したのだ。