建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

キリスト者の罪責告白2 戦争責任告白の問題

戦責告白の問題

 95年5月、敗戦50周年を迎えたドイツのカトリックプロテスタントの教会の代表は合同で声明「言葉」を出した。しかし日キ教団は何の罪責告白も出さなかった。日キ教団は旧約聖書、哀歌5:7の言葉を拒否したのだ。「私たちの父母たちは罪責ある者です。しかし彼らはもういません。それゆえ私たちが父母たちの罪責を担わなくてなりません」を。辻氏の懸念は的中した。辻氏の言葉をかりれば、戦争責任の罪責告白から「教団はまた逃亡した」のだ。

(二)国家と宗教という視点  キリスト者の抵抗のエネルギーとは何か。
 「一五年戦争の時期、ドイツや朝鮮においては、キリスト者による抵抗が存在したのに、なぜ日本の教会ではそのような抵抗が起きなかったのか」という問いが存在する。私は「明治以来日本のキリスト者には《国家と宗教という視点が欠落していた》からだ」と考えている。
 日本のキリスト者が有効な抵抗ができなかった理由として「日本のキリスト者の《歴史に対する社会科学的な認識の欠如》があげられる」と指摘するのが辻宣道氏の立場である。私はこれに対して異論がある。四つのポイントだけあげたい、
 第一に、果敢な抵抗をしたドイツと朝鮮のキリスト者において抵抗のエネルギーは何であったかを考えると、ドイツにおいてはキリスト教信仰それ自体から抵抗のエネルギーを得ていた、カール・バルトマルチン・ニーメラーらの神学文書「バルメン宣言」(1934年)によれば、キリストを主と信じる信仰がヒトラーへの絶対服従を拒否させたといえる。朝鮮のキリスト者においても、偶像礼拝禁止のエートス(後述)、キリストの再臨という聖書の歴史観が神社参拝を強制する日帝の支配の終りを認識させ、間近い民族解放への希望と抵抗の力を与えた、と解釈できる。
 第二に、日本において抵抗したキリスト者のうちで、歴史への社会科学的な認識という尺度が妥当するのは、矢内原忠雄柏木義円くらいで、浅見仙作(無教会)の反戦活動や管野鋭(ホーリネス、獄死)の天皇崇拝拒否などには当てはまらない。加えて失内原の「神の国」(1934・昭和12年、この論文で矢内原は束大を罷免された)という評論では、聖書的なレトリーク・修辞を用いて侵略戦争を批判している。柏木義円の神社参拝強制への批判論は「信教の自由」を根拠に展開されている。ドイツや朝鮮、そして抵抗したキリスト者における《抵抗のエネルギーとしての信仰理解》を掘り下げることが不可欠である。
 第三に、共産党への弾圧(1928・昭和3年)以後、一五戦争の時期、日本には「歴史への社会科学的認識」に基づく抵抗運動は存在しなかった(吉野作造「民族と階級と戦争」1932・昭和7年、家永三郎「戦争責任」)。共産党は1935年以後組織的活動を停止したと述べている(「日本共産党史」)。したがって社会的に存在しない運動方法をキリスト者たちだけに求めることはできない。
 第四に、一五年戦争の時期、キリスト者モーセ十戒にある偶像礼拝の禁止「あなたは私と並んで他のいかなる神をもってはならない」(出エジプト記20:3)を守るかどうかを迫られた。この偶像礼拝禁止の戒め、エートスによって朝鮮のキリスト者総督府の強制した神社参拝に抵抗した。日本の場合、柏木義円の神社参拝強制への批判的評論、あるいは神社参拝に抵抗したわずかなキリスト者にこのポイントがみられた(拙著58頁以下)。以上4点から「歴史への社会科学的な認識の欠如」より「国家と宗教という視点の欠如」というほうがよいと私は考えている。柏木、矢内原の場合、特にこの視点は明確であった。政府の宗教政策に屈伏した戦時下キリスト者は、真の意味で「イエスは主なり、という告白が、臣民の道にまさって優位に立つことを骨の髓からわかっていなかったのだ」(辻宣道)。上智大学学生靖国神社参拝拒否事件をきっかけに、文部省は神社参拝における「敬礼は《愛国心と忠誠とを現わすもの》に外ならず」との通達を出したが(1932・昭和7年)、カトリックはこれを受け入れ神社参拝を公認した。戦時下のキリスト者は神社参拝を国家および天皇への「忠誠を現わすもの」「臣民たるの義務」として受け入れ「キリストへの信仰告白」の上に「臣民たるの義務」をすえたのだ。95年に出た諸教派の「罪責告白」は天皇崇拝、神社参拝の公認つまり神社非宗教論への宗教的、政治的屈伏を懺悔したものである。