建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

マルコ伝の人の子の来臨3&4

2002-38(2002/11/24)

マルコ伝の人の子の来臨3  マルコ3:27

 27節においては、人の子来臨の後の行為について述べている。「み使いの派遣」であり、具体的には「四方からの選ばれた者たちの呼び集め」である。この背景には、神の民が全地に散らされ、かつ終末時に再び結び合わせられるとの思想があるが、マルコ伝はこの思想をキリスト教教団の意味に置き換えている。ゼカリア2・6~10によれば、「主は言われる、北の地から逃げてきなさい、私はあなたがたを、天の四方の風のように散らしたからである。…その日には多くの国民が主に連なって、私の民となる。私はあなたがたの中に住む」。申命30:3以下「あなたがたの神、ヤハウェはあなたを憐れみ、あなたを散らされた国々から再び集められるであろう。たとえあなたが天の果てに追いやられても、あなたの神ヤハウェはそこからあなたを集めるであろう」。今より後この課題は人の子に委ねられるが、彼が選びたもう人々は、イエスの随順者たち、教会員たちである。神が彼らを選んだのであるから、彼らは人の子に属している。
 終末時における人の子との交わりについて、エチオピアエノク62・13以下にはこう述べられている「その日には義とされた人々と選ばれた人々とは救われ、そして罪人と悪人との顔はもはや見る事はないであろう。魂の主は彼らを支配して住まい、彼らは人の子と共に食事をし、永遠に寝起きを共にするであろう」。人の子イエスと共にあって生きることができる、これがマルコ伝の結論であり、この福音書と他の新約聖書の文書とが共有している、終末論的待望である。
 このマルコの箇所のみ使いの派遣も、並行記事マタイ13:41「人の子は彼のみ使いを派遣して、つまづきと不法の者をみ国から取り去り、燃える炉に投げ入れるであろう」におけるような「つまづきとなる者たち」の結集のためのものではない。むしろ人の子に選ばれた者たち、特にイエスに随従した者たちが、世のあらゆる所からの呼び集めを意味している。だとすれば、その時点の教会はユダヤパレスチナばかりでなく、デァスポラのユダヤ人と同様世界規模に拡大してしたことになる。したがってこの呼び集めという見解は、先の旧約聖書ユダヤ教における、イスラエルの散らされた人々が終末時に集められるとの待望と結びつく。
 マルコ13:27も並行記事マタイ24:31も、選ばれた者たちの呼び集めしか語っていない。すなわち神が民の中に住む(申命30章)、選ばれた者たちが人の子と食事を共にし、寝起きを共にする (エチオピアエノク62章)とは述べていない。
 これについては、第一に、そこまでは述べていないがそう述べている、と拡大解釈する者、グニルカマルコ注解の立場がある。第二に、イエスの言葉は中断していて、選ばれた者たちにさらに何が起こるのか、人の子がさらに何をなされるか、述べていないとみる立場、マタイ伝のルツの注解もある。第三に、ローマヤーはこうみる、地に散らされたデァスポラのユダヤ人は終わりの時、神の地で神の民として再び一つに集められる。選ばれた者たちは、地の聖なる高き中心で結びつけられ、そこから神の座している天の最高の座へと上げられる、選ばれた者たちの天への昇位・移行をもって完成が実現される。最後の時のモーセの天への昇天が(偽典モーセの昇天)、イスラエルの星への移行をもって終わっているのは、啓発的である。神、人の子と選ばれた者たちは永遠に共にいるしかし選ばれた者たちの天への移行とのローマイヤーの解釈は、パウロの第一テサ4章やモーセの昇天と同一視するもので、マルコの記事とずれている。

 

2002-39(2002/12/1)

マルコ伝の人の子の来臨4  マルコ14:60~64

 マルコ14:61~64「そして大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出てイエスに質問して言った、あなたは何も答えない。これらの者たちがあなたに対してこのように(不利な)証言をしているではないか。しかしイエスは沈黙して何もお答えにならなかった。大祭司は再びイエスに質問して言った、あなたは、讃美されるべきお方の子、キリスト(メシア)なのか。そこでイエスは言われた、私がそれだ、人の子が力ある方の右に座して、天の雲と共に到来するのを、あなたがたは見るであろう。そこで大祭司は上着を引き裂いて言った、これ以上どんな証人が必要であろうか、あなたがたは神冒瀆の言葉を聞いたのだ」。
 61節における大祭司の質問「讃美されるべき方」は、神という表現・用語を避ける言い回し。神の意味。「キリスト」は、ローマイヤー訳では膏注がれた方、と直訳。メシアのことで、ギリシャ語訳がキリスト。大祭司は眼前にいる被告、イエスがメシア的な尊厳をもっているのか、神によってメシアに選ばれた存在なのか、端的にメシアなのかどうかを詰問したのだ。この審問において最大の問いかけである。
 これに対するイエスの回答は「私がそれだ」。イエスはこの質問にはっきり肯定された、とマルコ伝は述べている。マタイ26:64では間接的肯定「私がそれだ、と言っているのはあなただ」ルカ22:70も同様。
 王的地位を示すものとしてあげられる旧約の箇所は、詩110:1「主はわが主に言われた、私の右に座せ」。神の右の座に座して、神に代わって支配する、との見解で、特に62節の、人の子が「力、大能ある方の右に座して」などでは、その存在、人の子、メシア、イエスは言葉をとおして自分を啓示する神存在である。ユダヤ教の黙示文学においてはこの「力、大能」は審判のために出現する神的存在とみなされる人の子はダニエル13章に由来する「メシア称号」であるが、人の子は天の雲と共に出現する、62節。新約学者のハーンは、イエスのメシアへの任命がパルージア・到来と結びついていると考えている。「力ある方の右に座しつつ」との表現はすでにメシアへの即位がなされたことを前提にしているから、彼の解釈はずれている。ちなみにパウロはイエスの復活の時点をメシア即位とみている、ロマ1:4。8:34。イエスは即位させられた方としてやがて出現する。ダニエル7章からは、人の子の到来は神の王座への到来であり、それゆえ人の子の高挙の光景である、と考えられる。到来の後に即位がつづくから、到来をもって人間に向けられた出来事が注目される。イエスを裁く席についているサンヘドリン・最高法院は、来臨の場合には、イエスを神の代理者、審判者なる人の子としてみるであろう、62節。その時にはイエスの現在の卑賎の中でなされたメシア告白は神をとおして実証されるであろう。審判した側、サンヘドリンの後悔の思いは、外典、知恵の書5:1~5から読みとれる
 「裁きの時、神に従う人は大いなる確信に満ちて立つ。彼を虐げ彼の労苦をさげすんだ者どもの前に。彼らはこれを見て大いなる恐れに捕らえられ、思いもよらぬ彼の救いに茫然自失する。彼らは自分たちの考えの誤りに気づき、胸をかきむしり嘆いて言う、この者をかって我々はあざ笑い、愚かにもののしりを浴びせた…」
 神冒瀆。64節「あなた方は神冒瀆を聞いたのだ」について。神を冒瀆する、汚す行為とみなされたのは、モーセの第一戒「主の名をみだりに唱えてはならない」申命5:11。呪いごとを言う者、神を呪う者、主の名を汚す者は石打ちの刑に定められていた。レビ24:15以下。「主の名を汚す者はかならず殺されるであろう。全会衆は彼を石で打たなければならない」24:16。