建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

バルトの死の見解1  ロマ5:12

2005-4(2005/5/1)

バルトの死の見解  ロマ5:12

 1、バルトは言う、人間の死は神によって承認され、私たちの身に宿命的に定まったものものでは《ない》、また神によって意志された悪として、神の創造そのものに《由来したものではない。したがって人間の本性には属していない悪として》理解しなければならない(723)。

 2、神と私たちとの間には、埋め合わせのできない底知れぬ罪過(Schuld)が立っている。神の前での負債(罪過)隣人の前での負債(罪過)。この負債とはとどこおりのことである。またこの《とどこおり》とは、神との関係、隣人との関係のなかで、神から私たちに与えられた《自由をもちなかたということである》。この自由を人間が拒んで用いようとしないままにいる、囚われの状態のほうを私たちが選んでしまうこと、神に反抗すること、非人間的であることへと落ちこんでしまうこと、それがとどこりということである。そしてこのことが、私たちが負債〔咎〕があるということ、すなわち、そのことが『私たちの時間の終わり、私たちの死の中で、私たちに逆らって前にあることである』。詳言すれば、再び回復しがたいこのとどこおりの中で、私たちは私たちの存在から私たちの非存在へと移っていくであろう」(725)。
 3、私たちが『最早存在しない』ということは、私たちの過去の存在が咎のある、あらゆる点でとどこった存在『であった』ことを意味している。私たちの有限性の局面、私たちの死の局面が否定的なものであらざるをえないこと、私たちの時間が限りがあるということは、ただ悪の性格をもちうるだけだということは疑いえない。私たちの終わり、非存在がくるということは、ほかでもなく、《神の判決》とそれが執行されることを意味する。
 そしてその判決は、私たちの生が終わるというということだけはなく、この生が創造主の目から『退け捨てられるということ』結末を迎えばかりでなく、《しりぞけられ捨てられること》を意味する。すなわち私たちの生が自分でなしたことの確認として抹殺され、片づけられること、破棄されることを意味している。
 4、死は《神の審判》のしるしである。死は確かに私たちに出会うが、それも罪深い、咎のある(負債のある)人間に出会うからだと、バルトは述べている。「人間は神の被造物として与えられた自由を用いて神の前で生きることが許されていた。にもかかわらず、人間はこの貴重な自由をもちいないで、むしろこの自由をすっかり濫用してしてしまった」(727)。死が出会う罪深い、咎ある人間とはこのような人間である。

   死は神の審判のしるしとして、神によって任命された悪しきことであり、それゆえ、単に運命といったものではなく、むしろ神から来る、神によって受け取られた定めである(バルトは明らかに、死を人間存在のたどる自然的な定めとはみていない)。

                                     続