建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

眠りとしての死

2005-6(2005/5/15)

眠りとしての死
 新約聖書キリスト者の、《自然的な死》を「眠り」と呼んだ。「私たちの友ラザロが眠っている」(ヨハネ11:11)。復活顕現に出会った500人以上の兄弟たちのうち「数人が眠りについた」、「キリストにあって眠りについた人々」(Ⅰコリント15:6、20)、他にⅠコリント1:30、Ⅰテサロニケ4:13、14、行伝7:60、13:36、Ⅱペテロ3:4など。
 教会史において死を眠りとして把握したのは、ルターである。
「私たちはキリストが来られ、墓をたたいて、マルテイン博士起き上がれというまで、《眠っている》。その時私は一瞬のうちに復活し、キリストと共に永遠に喜ぶであろう」(「三位一体後の第16聖日の説教」、1533年。引用はモルトマン「神の到来」)
 「目が閉じられるや、あなたはすぐによみがえらされる。千年たっていても、あなたには半時間眠っていたくらいにしか思われない。夜に時鐘を聞く時、どのくらい眠っていたのか私たちにわからないように、いやそれ以上に、死においては千年も速やかに過ぎ去る。人がまわりを見回すまえに、人は美しいみ使いとなっている」。            「神のみ顔の前では、時の計算はないのであるから、千年も神の前ではあたかも一日のようであるにちがいない〔詩90:4参照〕。それゆえ最初の人アダムは、最後の審判の前、最後に生まれた者と同じくらい神の近くにある…なぜなら神は時を長さにしたがってではなく、むしろ横切って見られるからだ…神の前ではすべてがまたたく間に〔Ⅰコリ15:51〕起こる」。
 死が眠りとして把握されることは、当然のことながらイエス・キリストの死人の中からの復活を前提としている。この前提のもとでのみ、私たちの迎える死もその姿を変貌させるのである。この死の変貌についてルターは述べた「神のみ子イエス・キリストは私たちの代わりに来られて、罪を取り除かれた。それによって死からすべての権利と力を取り去られた。死の形をとどめるものは何もない。死はその棘を失ってしまった。ハレルヤ」(引用はモルトマン、前掲書)。「死はもはや終わりではなく、死は復活への門である」。
「自分の死の時点から、終末の死人のよみがえりまでどのくらい長くかかるのか。ルターはこの問いに対して地上の生きている者の時間をあてはめることをせずに、むしろ神の時について『またたく間に、一瞬にして』(Ⅰコリ15:53)と答えた。死者たちがもはや生きている者の時の中にいないで神の時の中にいるとすれば、一人の人間の死から、終末時の死人のよみがえりの時まで、どれくらいの長さがあるか。答は全く一瞬である。私たちの時で測ってみて、死者たちは<今>どこにいるのか。人はこう答えなければならない、死者たちはすでに復活と神の永遠の生命との新しい世界にいると」(モルトマン、前掲書、Ⅱ永遠の生命、4節)。