建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

井上良雄著「戦後教会史と共に」読後感想(1)

1996講壇1(1996/3/31~1996/6/16)

井上良雄著「戦後教会史と共に」読後感想(1)

 九五年の五月、日キ平の総会のおり、敗戦までのキリスト者の戦争責任の問題は、もうじきに私の本が出るから、今度は戦後五〇年のキリスト者の歩みについて検証すべきではないかという課題について、私たち中年の者(樋口重夫氏と私)がキリスト者平和運動の第一世代に属す人々、大川義篤、松田平太郎牧師らにお願いした。その時は必要とされる資料が集められないとの話も出た。日キ平の創立(一九五〇年) から四〇年以上がすでに経過している。私たち中年の者は、一九六〇年代の後半、靖国神社国営化の法案に対する反対運動の時期から平和運動に加わったので、それ以前の時期、一九五〇~六五年ころの時期は空白になっていた。 したがって、 その時期から運動に関わってこられた方々による総括、検証をまずはじめに出していただくことを、私などは強く求めていた。
 井上良雄氏は九五年一二月に前掲の著書を出版された。井上氏は一九〇七年生まれ、現在八九才になられる。この本は九〇年にいわば「遺書」として出版を予定されたものだそうだ。
 井上氏はカール・バルトの「教会教義学」の和解論(原稿用紙で一万数千枚)の翻訳者として知られ、東京神学大学の教師であった。本著の内容は、三部からなり、(一)一九五〇~六七年、(二)六七~八九年、(三)生い立ち「私の戦前、戦中」からなっている。
 (三)「私の戦前、戦中」(生い立ち、二〇ページ)の部分で興味深い点はいくつかある。井上氏が日本郵船に勤める父君と内縁関係の女性との間に生まれたこと。一高から京都帝国大学のドイツ文学に進んだこと。昭和二~五年ころの京都帝大は、三木清の論文「人間学マルクス主義的形態」「唯物史観と現代の意識」がさかんに読まれ、井上氏もマルクス主義の強い影響を受けた。同時にこの時期は共産党に対する弾圧事件が起きたが(昭和二、四年)京都帝大でも法、経済学部を中心に、かなりの学生が検挙、取り調べを受けた状況が記されている。
 「当時においてマルクス主義は私たちにとって単に社会変革の理論ではなかった。それは『われらいかに生くべきか』を私たちに教えてくれる倫理的な規範であり、さらには宗教的な何ものかでさえあった。 ソヴィエト連邦神の国のごときものであったし、共産党の活動家たちは神の国の福音の使徒たち、少なくともその宣教者でああった」(三七一ページ)。他方では当時のいわゆるプロレタリア文学には井上氏は批判的であったという(唯一の例外が中野重治であるそうだ)。
 卒業後東京にもどったころ、 満州事変が始まったが(一九三一・昭和六年)、翌年には父君の弟、元大蔵大臣の井上準之助が右翼テロに暗殺されたこと、法政大学の講師をしていた時、最初の文芸評論「芥川龍之介志賀直哉」を書き上げ、新進の文芸評論家として注目を浴びたという。
 興味深いことには、 と言っては叱られるかもしれないが、その頃井上氏は「自分の結婚のことで、言い逃れようもない罪を犯してしまった」という。その点について具体的には書かれていないがこうある「相手を傷つけ、尊敬している年長の友人を傷つけ、自分自身をも傷つけねばならなかった。後年、私は教会生活をするようになってから礼拝の中で使徒信条を唱えながら『われは罪の赦しを信ず』というくだりにきた時に、操り返し思い浮かべるのはそのことだった。…それ以来例えば漱石の『心』や『門』というような作品は、私には読み返すことのできない作品になった」(三七七)。
 「私の戦前・戦中」の最後の部分に、井上氏は教会にいくようになった経過を短く書いている。そのきっかけは一九四〇年に井上氏の母上と井上氏自身が預かって育てていた幼児が急死して、そのショックで井上氏は「何をすることもできず、ただ茫然として」しまった体験があったという。もう一つのきっかけは、スイスの神学者カール・バルトの著作に導かれて「聖書の世界」が自分に対して「現代の言葉で語りかけてくるように思われた」という体験である。かくして四五・昭和二〇年三月、信濃町教会で福田正俊牧師から洗礼をうけたという。その後空襲を避けて、九州の雲仙岳のふもとに疎開して敗戦を迎えた。
  この本の中で一番興味深く読んだのは、当然のことながら、(一)一九五〇~六七の部分であった。井上氏は四六年に東京にもどり、信濃町教会に属し、束京神学大学で教鞭をとり、「福音と世界」の編集者、日本キリスト者平和の創立メンバーとなった。
 一九五〇年は日本キリスト者平和の会創立の年である。この五〇~六七年の時期の活動として、当時書かれた評論(雜誌論文)など二〇におよぶ文(ページ数で一八〇)が載せられている。ここではキリスト者平和運動に関連したテーマにしぼって感想を述べたい。  このテーマで井上氏が問題としたポイントには二つの戦線があって、一つは従来の教会が考えてきた「平和運動よりも教会形成を重視する立場」とのやりとりで、神学者「北森嘉蔵氏との対論」に典型的に示されている。もう一つはキリスト者平和運動の理論問題、いわゆる「一元論」(井上氏の立場)と「二元論」の立場(運動する場合社会科学を用いる。キリスト教信仰と社会科学・マルクス主義との二つをふまえる立場)の理論問題である。これは「赤岩さんに間う」が典型である。
 井上氏の立場は、この本を読んでいくと終始一貫している印象がある。一九五二年に書かれた「キリスト教的リアリズム」という論文(九頁)は、「キリスト者と平和」というテーマについて書かれた先駆的論文だと感じられた。
 ここで井上氏は神学者カール・バルトの見解(「国家秩序の転換裡にあるキリスト教会」 一九四八)を紹介している。
 すなわち、キリスト者にとって「最後決定的な驚きと魅惑は主の十字架においてすでに起こってしまった。また…主の再臨において、最後的に起ころうとしている。…われわれは、一切 はイエス・キリストの支配の下にあるゆえに真剣に、地上の出来事に対処しうる。われわれは『日用の糧を今日も与え給え』と祈りつつ今日を生きることができる。これが彼(バルト)のいうキリスト教的リアリズムであろう」(二〇ページ)。
  この文章は井上氏がバルトの神学的な見解を受容し、それを戦後の日本の、社会的・教会的な状況にも適用しようとしたという点で、重要だと思う。この立場から当時のヨーロッパや日本の状況(すなわちソ連の影響のもとで東欧に社会主義政権が次々に生まれて、それに共鳴する人々のうねりが湧き起こった)をふまえてバルトが語った言葉に、井上氏は言及する。
 「したがってキリスト教的リアリズムにとっては、もはや《陶酔や酩酊》はありえない。今日われわれの周囲には、世界観や主義や原理やプログラムによる酪酊や陶酔が、何と多いことだろう。…バルトは世界観というものは、御言葉がいまだ聞かれていないか、あるいはもはや聞かれていないか、いずれにしても聖書が霊と呼ぶその霊のない(geistlos)世界において起こることだという。そして彼はしばしば《非陶酔的》という言葉を好んで使う。非陶酔的な生活とは、われわれの困難な、しかも神から見棄てられていない現実の中を、楽天的なイルージョンにも悲観的なイルージョンにも陥らずに、自若として歩んでゆく生活のことであろう」。(続く)