建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

貧しい者の希望(四)

1999講壇1(1999/9/4~1999/10/24)

貧しい者の希望(四)

貧しい者への祝福
 貧しい者についての解釈の歴史をスケッチしてみて言えるのは、貧しい者とは《貧しい者》と人間的にみて《絶望した者》すなわち《貧困の問題と悲惨の問題》にまとめることができると考えられる。悲惨の問題は社会的原因、貧困、捕囚、戦争、追放、転落などばかりでなく、もっと人間的な要因、病気や身体の障害、愛されないこと・孤立、罪責、やがて迎える自分の死、無意味、能力の欠落、愛する者の喪失なども存在するであろう。
 さて次に、イエスがこのような貧しい者を祝福されたことによって彼らに何が与えられたかを考えたい。貧しい者、絶望した者の「救い」はどのようにすれば実現するのか。
 イエスは彼らにいわれた「神の国はあなたがたのものであるからだ」(ルカ六:二〇、マタイ五:三では「天国」)。「神の国」は英語圏の翻訳用語で、ドイツ語圏では「神の支配」と訳される。これをエレミアスは「神の王的支配」と翻訳する。この「神の王的支配」は《イエスの説教とイエスの行動》をとおして告げられた。「その時から、イエスは宣教を始めていわれた『悔い改めよ、天国は近づいたからだ』」(マタイ四:一七)。
 注意して読むと、神の国に入るとイエスによって告げられた人々は、「貧しい者」(ルカ六:二〇では「あなたがたのものだ、神の国は」とあって神の国は貧しい者「だけのものだ」という)「幼児」(マタイ一八:三「幼児のようにならなければ、天国に入ることはできない」)「取税人と遊女」(マタイニ一:三一「取税人と遊女はあなたがた(祭司長らや長老ら)より先に神の国に入るであろう」)。「身障者と盲人と足のなえた者」「田舎道や垣根のとことろにいる者(異邦人)」(ルカ一四:二一~二二)などである。
 イエスが行動において神の王的支配の到来を告げられた対象は、「取税人と罪人」(マタイ十一:一九、イエスは「取税人と罪人の友」)取税人の頭ザーカイとの交流(ルカ一九章)、一二弟子の一人取税人レビ(マルコ二:一四)、特に「取税人」はローマ帝国の課した税金を取り立てる職業の人で、ユダヤ人からは蛇蝎のように忌み嫌われ、社会的に共同体の仲間として排除された。それゆえイエスが彼らと「食卓の交わり」をされたことは、ユダヤ教の体制を根幹から揺るがす反律法的な事件であった。他方取税人は経済的に貧しい者ではないにせよ、従来自分たちを排除してきた社会とユダヤ教に憤激を抱いていたが、イエスに受け入れられたことをとおして神とその恵みとの近さを体験できた(ザーカイの生き方の転換)。
 「罪人」は罪ある職業の人の意味で、取税人、羊飼い、遊女、高利貸し、異邦人などを意味していた。「健康な者に医者はいらない。医者がいるのは病人である。私が来たのは正しい者を招くためではない、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(ルカ五:三一、三二)。
 イエスの婦人たちとの交流「伝道旅行の中に婦人らが同行したこと」(ルカ八章のマグダラのマリア、ヨハンナら)、サマリアの女との交流(ヨハネ四章)、ツロ・フェニキアの女の娘の癒し(異邦人の女性、マルコ七:二四以下)もユダヤ人の憤激を買った。
 悪霊に憑かれた患者(精神疾患の人)、病人、身障者(多数の箇所)などである。特に悪霊追放は神の国の現臨のしるしであった。「私が神の指で悪霊を追放しているのであったら、神の国はすでにあなたがたのところに到来しているのだ」(ルカ一一:二〇)。
 「疲れている者、重荷を負わされている者は誰でも、私のところに来なさい。私が休ませてあげよう」(マタイ一一:二八)
 むろん「飢えている者、泣いている者」(ルカ六章)「夕方五時ごろまで仕事にあぶれた労働者」(マタイ二〇:六)などもいる。
 社会的弱者や疎外された者、イエスが説教と行動をとおして神の国の到来を開示されたのは彼らであった。その点ではイエスの行動は、公平ではなく、一方にのみ味方する、党派的なものであられた。
 貧しい者に対するイエスの祝福の意味を考えたい。その場合眼目となるのは、イエス神の国、神の支配は貧しい者たちのものだという言葉、約束は、何か貧困や絶望からの解放の「社会・ユートピア」を意味していたのか、あるいは、イエスの貧しいへの祝福自体が貧しい者に貧困からの解放と貧困との闘いの力を与えたことを意味していたのかという点である。以下で第一に、E・シュヴァイツアーの解釈、第二に乞食ラザロ(来世での慰め)、第三に、シュテーゲマンの解釈(笑いと飽食)、第四に、シモーヌ・ヴェーユの見解(究極性による労働の実現)、第五に、モルトマンの解釈(尊厳の授与)などを取り上げたい。
 まず、エドワルト・シュヴァイツアーはマタイ五:三「幸いなるかな、心の貧しい者たち、天国はあなたがたのものだからである」についてこう解釈している。
 「神は貧しい者すべてのために、苦悩する者たちに加担しつつ臨在される。この貧しい者たちにおいて王の憐れみは示される。…貧しい一人の人間(イエス)が《何一つ貧しい者たちの状態を変えないままで》、あなたがたは幸いなのだと言ったという、ただそれだけの理由で貧しい者は幸福なはずだということは、決して理解しやすいことではない。イエスは与えることのできる唯一の根拠は、貧しい者のものである神の国を指し示すことだけである。…イエスは貧困や苦しみや飢えを熱狂的な敬虔によって打ち負かそうとする狂信主義者ではない。…《イエスが約束なさる時、将来の御国は彼らのところに到来している。それゆえ彼らはすでに救いを与えられている》)。その場合、すべてはイエスの背後に神ご自身の全権があるということにかかっている」(「山上の説教」)。
 この解釈は最もまともなものの一つであるがこれによれば、貧しい者たちはイエスによって神の国を約束されたことによって救いを与えられたことになる。ここには貧困との闘いや貧しい者の実存の変貌もなく、貧困のないユートピアの提示もない。それゆえなんとなく心の踊らない解釈である。
 次に「金持と乞食ラザロ」の話(ルカ一六:一九~二六)を取り上げたい。
 「一人の金持がいた。彼は紫の衣と亜麻布を着て、毎日華やかに楽しく暮らしていた。さてその金持の門のところにラザロという名の、出来物だらけの一人の乞食が寝ていた。ラザロは金持ちの食卓から落ちるもので満腹したいと切に願っていた。しかし犬がきて彼の出来物をなめた。乞食は死んでみ使いによってアブラハムのふところにつれていかれた。金持も死んで埋葬された。そして金持は黄泉で苦しんでいたが目をあげると遥か彼方にアブラハムとそのふところにいるラザロを見た。そこで金持は叫んで言った。『父アブラハムよ、私を憐れんでラザロを遣わして、指先を水にひたして私の舌を冷やすようにしてください。私はこの焔の中でひどく苦しんでいます』。アブラハムは言った『子よ、思い出してみなさい。あなたは生きていた時善いものを受けていた。ラザロは悪いものを受けていたので、彼は今ここで慰めを与えられた。あなたはひどい苦しみにあっているのだ…』」。
 この話では、貧しい者、乞食ラザロが「神によって慰められる」のは死後、来世においてである。生きいた時のラザロは悲惨な境遇にあった。乞食で、吹出物や飢えに悩まされ、身障者で体が不自由なため吹出物をなめにくる犬も追い払えない。死んでも埋葬してくれる者も、葬儀をしてくれる者もいない身寄りのない、淋しい者であった。このラザロは死後「神による慰めを与えられ」(「慰められる」という受身形は神的受身形で、慰めの主体は神)「アブラハムのふところに迎えられる」という名誉ある地位をも与えられる。他方金持は黄泉で苦しむ。この話では「社会的境遇の終末論的逆転」は死後において実現する、この地上の生活で乞食や身障者であった者に対して、死後において名誉ある地位と慰めを神は与えられる。そのようにして「神は貧しい者の神」でありたもう。
 しかし死後、来世においてのみ貧しい者が神の慰めを受けるというのでは、貧しい者に「肩すかしを食せる」ことにならないだろうか。死後において、来世で神が慰めてくださることで貧しい者は救われるのだろうか。これではマルクスのいう「宗教はアヘンである」の典型的事例ならないか。「貧しい者・乞食が来世では神による慰めが与えられる」という約束で、現在貧しさの中にある者は、納得して、神は貧しい自分たちの神でありたもうと感謝するのであろうか。死後といってもけして遠い将来のことではなく、ラザロと金持双方の死はごく近い出来事ではあったが。(続)