建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

貧しい者の希望(七)

1999講壇1(1999/9/4~1999/10/24)

貧しい者の希望(七)

絶望した者へのメシア的慰め
 絶望者へのイエスのメシア的慰めの例として「罪の女・ルカ七:三六~四九」をみたい。
 「パリサイ人の一人が食事を共にするためにイエスを招待した。イエスはパリサイ人の家に入って、食卓におつきになった。すると見よ、その町で罪の女であった女性が、イエスがパリサイ人の家で食卓についておられると知って、香油の入った壺をたずさえてきて、泣きながら後からイエスもとに進み寄り、涙でイエスの足をぬらし始め、髪の毛でそれをふき、足に接吻して、香油を塗った。イエスを招待したそのパリサイ人はこれを見て、ひそかに思った。もしこの人が預言者であったとしたら、自分に触っている者が誰で、どんな女性かわかるはずだ。この女性は罪の女なのだから。そこでイエスはそのパリサイ人に答えて語られた、『シモンよ、あなたにいわねばならないことがある』。彼はいった『先生、言ってください』。
 『ある金貸に二人の債務者がいた。一人は五〇〇デナリ[デナリは一日分の賃金]、もう一人は五〇デナリを借りていた。二人が返すことができなかったので、金貸はその負債を免除してやった。そこで二人のうちどちらがその金貸をよけいに愛するであろうか』。シモンが答えて言った『私の考えでは余計に免除してもらった者です』。イエスは『あなたの判断は正しい』と言われた。
 それからその女性のほうを向いて、シモンに言われた、『この女性を見たか。私があなたの家にきた時、あなたは足をぬぐう水を出してくれなかったが、この女性は涙で私の足をぬらし、髪の毛でそれをふいてくれた。あなたは接吻してくれなかったが、この女性は私がこの家に入ってきた時から、私の足に接吻することをやめなかった。あなたは油を頭に塗ってくれなかったが、この女性は香油を足に塗ってくれた。それゆえ私はあなたに言う《この女性の多くの罪は赦されている。この女性が[私を]多く愛したという事実によってそれが証拠づけられている》。少ししか赦されない者は少しの愛しか示さない』。そしてその女性に言われた『あなたの罪は赦されている』。同席してた人々はひそかに考え始めた『罪を赦すこの人はどいうお方なのだろう』しかしイエスはこの女性に言われた『あなたの信仰があなたを救ったのだ。平安あれ、さようなら』」ヴォフオ訳。
 三七節「その町で罪の女であった女性」は、被女が「遊女」であったという解釈がほどんとである、エレミアス、ジュールマン、ヴォフォなど。食卓に招かれざる女性が闖入してきて、三七~三八節「涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でその足をふき、その足に接吻して香油をぬった」。遠藤周作は「この涙」に着目してさすがであるが「悔恨の涙」と誤解した(「聖書の中の女性たち」)。彼女はイエスの足に香油をぬった。客の足に油をぬることはホストの妻や娘の務めとされた。彼女の異様な行動、香油の壺をもって居並ぶ男性の招待客のただ中にやってきて、男性らの前で(自分の髪の毛を解く)のは、ユダヤ人の感覚のでは特にエロチックに作用し、またその女性の恥辱ともされた。また足へのこの接吻は(一)王や高貴な人物への敬意・畏敬の表明、マタイ二八:九、(二)大いなる感謝の表明である、ルカ一七:一六、(三)途方もない愛の表明でもある。
 ホストのシモンはこの女性が体に「触れる」ままにさせているイエスを心の中で非難する、三九節。四一~四三節でイエスの短い譬えが語られる、ポイントは四七節「余計に(負債を)免除してもらった者は(その免除者を)余計に愛する。少し免除された者は少ししか(免除者を)愛さない」にある。
 難解なのは四七節の翻訳である。協会訳「この女は多く愛した《から》、彼女の多くの罪は赦されている」。この訳ではその女性がより多く愛した「功績」によって「多くの罪の赦しが起きたという行為義認の誤解」を引き起こす。前半と後半は原語の接続詞「ホティ」で結合されている。この語は通常は《なぜなら》と訳されるので先の協会訳が出てくる。人間の側の愛が先行してやがて神による赦しへと至るとのカトリックの解釈で、重大な誤訳である。
 エレミアスはこう解釈する「神は彼女の罪をそれがどれほど多かろうと赦された。(なぜなら)彼女は深甚の感謝をこめた愛を表しているからだ」。これは正しい解釈だ(「イエスの譬」)。塚本訳「この婦人の多くの罪は赦されている。(いま)多く(私を)愛したのが《その証拠だ》」。これは卓越した訳である。先の接続詞「ホティ」は「…から見て」「…という事実を証拠にして」の意味で、「この女性の多くの罪は赦されている。彼女が多く(私を)愛した《という事実がその証拠となる》」ヴォフオの注解。この女性がイエスに示した「感謝をこめた行為・愛」は彼女の罪が赦された証拠なのだ。イエスによる罪の赦しはその人間の側にそれに見合う「応答」感謝の行動、そう言ってよければ「イエスへの特別の愛」を引き起こす、この女性の流した「涙」は「悔恨の涙」ではなく「感謝の涙」であったのだ。
 四八節「あなたの罪は赦されている」は、以前にイエスが罪人への大いなる罪の赦しについて説教するのを彼女が聞いた、それでこの食卓に現われたそのことを前提としている、エレミアス。しかしルカ自身は「いつの時点で」この女性の罪が赦されたかは問題にしていないようだ。五〇節「あなたの信仰があなたを救った」は、イエスの説教を聞いて、神の大いなる恵みを彼女力受け入れたことを物語る後半の「平安あれ、さようなら」は、単なる「イエスの帰還命令」(荒井献「イエスとその時代」)にとどまらず、罪赦された者の今後の生活、信仰者として生きる生活を示している。
 遊女も絶望者にちがいない。ここで思い出されるのは、次のイエスの言葉である「取税人や遊女たちはあなたがた[敬虔とされている律法学者やパリサイ人]より先に神の国に入るであろう」(マタイニ一:三一)。社会的宗教的に「罪の女」として軽蔑され、交わりから遮断されていた遊女をイエスは受け入れたもう。彼女の献げた香油は特別高価なものであったから、彼女はけして貧乏人ではないが、特有のルサンチマン・憤激を神と自分の人生に抱いていたろう。イエスとの出会いとその慰め・罪の赦しによってこの女性のルサンチマン・憤激と絶望は溶解したのだ。

 イエスは絶望した者に第二イザヤの預言をふまえて、もう一度、彼らに神の慰めを約束し、それに見合うふるまい、彼らとの交わり、癒しをなされた。そのことが実際彼らの慰めとなり救いとなった。「慰めはメシア的救いに対する包括的な用語であり、イスラエルの慰めはメシア的な希望となった」(新約聖書神学辞典)。
 「慰めは終末論的な完成の総括であり、慰める者はこの完成をもたらすところの、神によって遣わされた者に対する名である。…神の慰めは人間の悲嘆と苦境がどのようなものかという問いに対する唯一の解答である。神はその二つ人間の悲嘆と苦境を理解するのではなく、来るべき世が到来した今、その二つを過ぎ去らせたもうのである」(ローマイヤー)。
 イエスご自身が「しいたげられた者の神、小さき者の助け主、弱き者の守り手、《失望した者の援護者、絶望した者の救い主》」でありたもう、ユデイト九:一一。ここには「失望した者・アペグノースメノス」「絶望した者・アぺールピスメノス」と絶望を表す用語が二つ出てきて注日に値する。絶望の原因がどれほどあろうとも、イエスが慰めたもうから、もはや絶望することはないことをも告げたもう。神の慈悲深い支配への希望(シュテーゲマン)を絶望した者に告げられたからである。
 《絶望とイエス》との関連として二つの箇所をあげられると私たちは考える。一つは、ゲッセマネにおける「聞き届けられなかった祈り」である。ヘブル五:七「キリストはその肉の生活の時には、涙を流し激しい叫びをあげて、ご自分を死の力から救うことのできるお方に嘆願と懇願をささげられたが、御子であったにもかかわらず、その不安のゆえにそれは(聞き届けられなかった)」(ミヘルの注解、ハルナックの読み方、ブルトマンも採用)。もう一つは十字架上の「イエスの叫び」(マタイ二七:四六後述)で、ここでも絶望とイエスの関連の片鱗がうかがえると考える。ヘブル二:一八「イエスご自身が試練をうけて苦しみたもうたからこそ、いまなお試練の中にある者たちを助けることができる」を、私たちは次のように読み換えたい、
 「イエスご自身が絶望を体験なされたからこそ、今なお絶望している者を慰めることができる」と。神による慰めとイエスによる絶望した者へのメシア的な慰めとにある区別は、イエスの場合、ご自身が絶望を知つておられる方の慰めだという点にある。(この項終り)