建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

キリスト者の死 (一)

2000講壇3(2000/7/30~2000/8/20)

キリスト者の死  (一)

 旧約聖書のイザヤ三八:一八以下のヒゼキヤの祈りでは、死者が神との絆が断ち切られているとみている
 「陰府はあなたを讃美せず、死はあなたをほめたたえない。墓にくだる者はあなたの真実を待ち望まない。生ける者、生ける者のみ、今の私のようにあなたをたたえる」(関根正雄訳)
 ここでは死者は神との関係を喪失した存在と述べられている。つまり死は神との、他の人間との、あらゆるものとの関係の喪失を意味する。詩六:五、一一五:七「死においてあなたを覚えることはなく、誰が陰府であなたを讚美しうるであろうか」、詩八八:一二「あなたの義は忘れの国(陰府)で知られるであろうか」。
 このテーマについて「創世記は人類の原初史(一~十一章)を理想的な神関係が劇的な状況において破壊されていくという視点で描いた」(フォン・ラート「旧約聖書神学」一巻)。
 アダムをとおして罪が人類に侵入してきた。「一人の人(アダム)をとおして罪がこの世に入った」(ロマ五:一二)。この罪の侵入は「善悪を知る木からは[その実を]食べてはならない」(創世二:一七)との神の戒めを破ってアダムがその実を取ったことから始まった(三:六)といいう。
 「神は知識の領域においては、神と人間との間に限界をもうけておく必要があると考えられた。『善悪を知る木』の、『善と悪』は、ここでは一方的に道徳的意味ではなく、 『あらゆること』の意味で理解すべきだらだ。したがって人間は、自分の被造物としての限界を超えて神のような生命を得よう、神のようになろうと試みることによって、神に対する服従という素朴さから抜け出してしまったのだ。そうすることによって、人間は神に近い楽園での生活を棒にふってしまった。彼に残されたのは、労苦の中の生活、疲労困億させる謎に満ちた生活、悪の力との希望なき戦いに巻きこまれ、最後には無条件に死に陥るのだ」(ラート、前掲書)。
 旧約聖書では民数記二七:三のみがこう述べている「コラは自分の罪のゆえに死んだ」(コラは荒野の放浪の時モーセに背いた人物)と。
 パウロは繰り返し「罪と死との関連」について述べている。「またその罪をとおして死がこの世に入り込んできたように、死がすべての人間に広がった。すべての人が罪を犯したからだ」(ロマ五:一二~一四)。後期ユダヤ教のアダム論をふまえて、パウロは人間はアダムの堕落のゆえに死ぬのではなく、個々人が犯した自分の罪のゆえに死ぬのだ、とみた。「一人の人間をとおして死がきたのだから。…アダムにあってすべての人が死んだように。…」(第一コリ一五:二一~二二)。パウロの結論はこうである「罪の報いは死である」(ロマ六:二三)。
 人に関係喪失を引き起こすものこそ人間のもつ罪である。これが死である「死とは人をこのような関係喪失へと追いやることの総計である」(ユンゲル「死」、蓮見和男訳)。
 これと異なってパウロの生死観では. 「生と死の相対化」が際出つている(ユンゲル)。「私が渇望し、期待しているのは…キリストが生によってであれ、死によってであれ、私の体において公然と栄光をうけることである。というのは、私にとって生きることはキリストであり、したがって死ぬことは益である。ところで肉において生きること、それは私にとって働きという賜物である。私が[生と死と]どちらを選ぶべきか私にはわからない。私はこの二つのものの板ばさみになっている。私が切望するのは、[生に]別れを告げてキリストといることである。そのほうがはるかによいからである。しかし肉にとどまることは、あなたがたのゆえにまさに必要である」(ピリピ一:二〇~二三、佐竹明訳)。 パウロにおいては「死」は人間を死の力、黄泉に引き渡すことを意味してはいない。キリストが生きている彼を支配している、そればかりではない。死後も彼はキリストの支配のもとにある。「キリストは死者と生者との主となるために、死んで生き返られた」(ロマ一四:九)。旧約聖書において決定的に示された、人間の「あらゆるもの、神との関係を喪失させるものとしての死」という見解がパウロにおいては打破、突破されている。
 「私はこう確信しているからだ、すなわち、死も生も、天使も軍勢も、現在のものも将来のものも、いかなる権力も、高きものも深きものも、そのほかいかなる被造物も、私たちの主イエス・キリストにおける(キリストにおいて私たちに対して働いておられる)神の愛から私たちを引き離すことはできない、と」(ヴィルケンス訳)。ここでは死も神の愛から私たちを引き離せない、死人はキリストを主として仰ぐ(一四:九)、とある。              続