建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

キリスト者の復活(二)

2000講壇4(2000/8/27~2000/10/28)

キリスト者の復活(二)

藤井武の来世研究(1)
 藤井武(一八八八~一九三〇)は無教会主義者、内村鑑三の弟子。四年の役人生活をやめて後、内村の助手となり、一九二〇・大正九年に独立、「旧約と新約」誌発行。彼の著書はほどんとこの誌に掲載されれた。「永遠の希望」(一九二〇・大正九、全集第一一巻所収)、「沙漠はサフランの如く」(一九二四、全集第三巻所収)との両著は彼の復活・来世研究の代表作である。著作全体は死後「全集・一二巻」が一九三一・昭和六年に岩波より出版、一九三九再版。戦後一九四九年に「選集・一〇巻」が岩岡書店から、七一年に「全集・一〇巻」が岩波から出版された。生前出版されたものにはこの他に「聖書の結婚観」(一九二五)「イエスの生涯とその人格」(一九二七)「聖書より見たる日本」(一九二六)などがある。
 藤井は結婚生活一〇年にして喬子夫人に病没された(夫人二九才、一九二二)。亡き妻との絆を歌いあげた長詩「こひつじ(羔)の婚姻」は、翌二三年から死ぬ三〇年まで書き続けられ後に全集におさめられた。今は亡き愛する者との絆のテーマが彼の晩年の著述の一つの中心であった。これは「来世研究」の背景になっているという印象をうける。
 先の著書によって《日本における終末論、復活・来世研究》は藤井武によって築かれ発展させられたという観がある。内村鑑三の「宗教問答」(一九〇〇)は「復活、永世、天国」について詳論しているが、読んでいて藤井のもののほうがテーマにより踏み込んで展開している。
 一九二〇年代というと、西欧の神学界では第一次大戦後いわゆる「弁証法神学」が登場し、バルトの「ロマ書」「死人の復活」、「死人の復活」へのブルトマンの「書評」が出て、復活について論議された時期にあたる。特にバルトの「死人の復活」が藤井の両著と同時期に出たこと、ともに第一コリント一五章の講解を中心にすえている点は、不思議な一致といえる。
 ここでは藤井武の「沙漠はサフランの如く」を取り上げたい。「沙漠はサフランの如く」は前述のように、死の六年前、三七才の時に出版された(一九二四)。内容は、第一~第七(章)、一六三ページ、キリスト者の来世生活(第一)、キリストの復活(第二)、身体の復活(第四)、死後の生活(第六)、などについて論じている。
 本書の特徴は、キリスト者の死にキリスト者の復活を直結させるのではなく、その死と復活の間の状態、いわば「中間状態」について展開した点、キリスト者の復活への希望からみたキリスト者の死の変貌、死後キリスト者はどうなるのか、先に世を去った愛する者との再会などについて取り上げた点にある、藤井はこれを「来世生活、死後の生活」と名づけた。

 藤井は、まず「死は万事の終局なるか」を問いかけ、「死が万事を終るとの冷き観念は、いやしくも霊的生活を営む者にとりて堪えがたき苦痛である」と述べている。また近代、現代における来世観の衰退の原因を分析し、古代バビロニアやエジプトの諸宗教における来世観にふれ、さらに近代におけるキリスト教以外の無宗教の科学者、文学者による「来世への希望」が表明された例を二、三引用している。カーライル(一九世紀、イギリスの歴史家、思想家「衣裳哲学」の著者)についてはこう述べている
 「カーライルは終始かわらざる来世信者であった。一八二三年、彼は後に妻となりしジャンニーに書き送りて日く『私は未来に輝く国における再会の希望を抱くがゆえに、死をもって人の至上の特権となすものである。もし我らかしこにて相会うのでないならば、もし我らを去りし者が消えて跡なき永遠の無に帰したるに過ぎぬならば、ああ神よ、汝は何のために我らを造ったのであるか』。…彼の生涯もようやく晩年に入りし頃、妻は彼に先だちて眠った。その時彼の切なる悲痛を慰めしものはただ『我らがついに再び愛する者らと共にあるべき、かの静けき国』の希望のみであったのである」(「沙漠はサフランの如く」)。     . 
 次に「しからば《キリスト者の来世生活》とはいかなるものであるか」について論じる。
 藤井は、第二コリント五:一を引用する「私たちは知っている、私たちの地上の幕屋がこわされると、天にある、手でつくられたものではない神による住居、永遠の家を私たちが得ることを」(藤井は文語訳聖書で引用しているが、以下聖書の引用はすべて注解書などの最新の訳による)。
 「[この引用箇所が]霊魂の不滅については一言も触れないことに注意せよ。けだし[蓋し思うに]これに触るるの必要がないからである《キリスト者の霊魂が死後不減なるは言をまたない》」[この部分は疑問に思う。聖書的根拠があるのか疑問だからだ]。「聖書[先の引用]が明白ならしめんと欲するのはかえって《身体の問題》である。霊魂の活動の機関たる身体の問題である」と藤井は正しく把握した。
 「我らが現在の肉体もし壊れんか、懼るる[おそるる]なかれ。さらに勝[ま]される身体が我らのために備えらるるのであるという。すなわち一時的の幕屋に対して永遠の建造物である。地上にありてすべての地的性質を備える住所に対して、今は天上神のもとにたくわえられ、後に我らの上に降るべき住所である。…しかしながらその性質において現在の肉体と全然対照をなすべきもの、かくのごとき一種の特殊なる身体がキリスト者の未来に備えらるるのであって、この身体を纏う[まとう]ての活動が彼の永遠の生活であるという」。
 将来キリスト者に与えられる新しい体「永遠なる身体」について、最良の注解として藤井は第一コリント一五:三五以下をあげた。  続