建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

キリストと共に(三)(四)

2000講壇5(2000/10/28~2000/12/3)

キリストと共に(三)  ピリピ一:二一
 「キリストにある新しい被造物」(第二コリ五:一七)ガラ二:二〇「私を愛し私のためにご自身を渡したもう神の子を信じる信仰にある生」など。しかし他方バルトはこことの関連で「キリスト神秘主義」について語ることを放棄している。
 「自分の死が利益だ」と言った意味について。パウロにとって死は決して一般論ではなかった。彼はエペソでローマ当局によって近衛隊兵営に投じられて(ピリピ一:一三)裁判を待っていた。
 「パウロは自分の囚われの状態が殉教の死をもって終ることかもしれないことを考えに入れざるをえない。この場合にこそ、彼は《死後ただちによみがえってキリストのもとに移されること》を待ち望んでいる。自分の殉教の死の場合には特別の種類の復活が与えられることを彼は待ち望んでいる。…起こりうるかもしれない死刑の宣告という思いに彼の意識がいかに強く関わっていることは、彼が自分を諸教会のために献げられる犠牲であるとみなしていることからも、明らかである」(アルバートシュヴァイツアー「パウロ神秘主義」一九三〇武藤、岸田訳)、そして注的に以下を引用したピリピ二:一七「しかしたとえあなたがたの信仰の《供え物と奉献にそえて》、私の血が注がれたとしても、私は喜ぶ、あなたがたすべてと共に喜ぶ」バルト訳(ローマイヤー訳もほぼ同じ。この箇所は翻訳が特にむずかしい。佐竹訳「たとえ私の血が注がれることがあっても、あなたがの信仰を捧げて礼拝できることを私は喜ぶ」)
 シュヴァイツアーの解釈の特徴は、このパウロの言葉を第二コリント一二章のパラダイスへ移された体験と関連づける点にある。
 「しかし主の幻(オプタシア)と啓示を私は語りたい。私はキリストにある一人の人間を知っている。この人は一四年前、《第三の天に移された》ーーそれが体においてか[体のままか]私は知らない、体の外部においてであったか、私は知らない、神がご存知である。この人は《パラダイスに移されて》、口では言えない、人間には語ることが許されない言葉を聞いた」(第二コリ一二:二~四ブルトマン訳)。
 シュヴァイツアーはパウロと天に移されたエノクを関連づけている、「私の祖父エノクがさらわれていった、選ばれた者らと義人らが住む園」(エチオピア・エノク六〇:八)「この後、彼(エノク)の名は、乾いた大地に住む者たちの中から、あの人の子、霊魂の主のみもとに生きながら引き上げられた」(七〇:一)。ヘブル一一:五「エノクは信仰によって死をみないように、移された。神が彼を移されたので彼は見えなくなった」。シュヴァイツアーはいう
 「パウロは他の死者たちと同じような仕方でよみがえるのではなく、死の安らいから目覚める時《ただちに朽ちない体を所有し》、またその体でイエスと会うために《空中に移される》と想定していた(第一テサ四:一七)。それゆえイエスのもとに移されるという思想は、キリストにあって死んだ者の復活という観念自体のうちにすでに含まれている。…すでに天にまで移される体験をしたと自覚しているパウロは[第二コリ一二章]、自分の身に起こるかもしれない殉教を予想して、キリストにあって死んだ他の者たちより、《さらにすぐれた仕方における復活を体験するとの期待》におそらく到達できたであろう。かくしてパウロにおいては、《自分の殉教の死の場合に、ただちに個人としてよみがえり、キリストのもとに移されるとの希望》が生じる」。シュヴァイツアーの解釈によれば、パウロがピリピ一:二〇以下で述べている事柄は、使徒パウロ、地上にあってパラダイスに移された特別の体験をもつ人にのみ妥当する特殊の復活への希望であったことになる。 続

キリストと共に(四) ピリピ1:22以下
 「死は利益だからだ。しかし肉にある生の場合は、それは私には業の収穫である」
 「死は利益」について。この文からはパウロの述べた内容はつかみにくい。現代人の感覚では、「死はすべての終わり」であるから、損失ではあっても、利益とは考えられない。死が《その人》にとってではなく、《他の人々》にとって利益となる場合もあろう。パウロにとって「死」は、すでにみたように「殉教」を暗示していた。またパウロはここで個人としてか、使徒としてか主にどちらの意味合いで語っているか、というポイントもあるはずだ。死はパウロに何をもたらすのか。したがってパウロが語っている文脈を把握することが不可欠である。前の20節でパウロは「生によってであれ、死によってであれ、私の体でもってキリストが偉大なものとされる」との「希望」を述べた。ここでも「キリストが偉大なものとされる」という視点から、彼の「利益」と解釈するというのがバルトの解釈である。
 「『利益』はたぶん、パウロが死後の生においてキリストと合一されることを望んでいるというように理解することはできない。この利益は『キリストが偉大となりたもう』と関連づけられるべきである。『死ぬために《この世から発ち去って》決別する』(23節)ことが、なぜ《利益》を意味するかといえば、それは肉体の死、彼と共に死ぬことにおいてさえある種の『キリストと共にある』(23節)ことを意味するからであり、キリストはご自分に属す者たちを実際この『彼と共にある』の中に、彼の死との交わり(3:10「彼の死と同じ姿にされて」)の中に受け入れたもうたことによって、彼らの体の生活において完全に《キリストは偉大となる》からである。パウロキリスト者の生活に生じる《利益》は、コロサイ1:24によれば、パウロの苦難によって満たそうとする『キリストの患難のなお欠けているもの』に対する対幅をなしている」(ピリピ書注解」)。
 ローマイヤーの注解は、バルトのものとは違って、パウロ自身にとっての《利益》を強調して、23節と関連づけて「死後の生」のありようの解釈をしている。
 「殉教者は、自分の外的な運命の中に神的な恵みの啓示がすえられているのを知つている。彼岸的な栄光の光が当てられる時には、殉教の時はこの外的な現存在を神聖な域へとつくり変え、この現存在の束縛を解かれると、やがてキリストとの交わりが実現されるようになる。この束縛を解き放つのが死である。死は現存在からの解放であり、それによって究極の完成に至らせる。死は『キリストと共に』の生への祝福された移行である」。
 23節「私が切望しているのは、(世を)去って、キリストと共にいることである。そのほうがはるかによいからだ」
 「世を去る」は、死、出発、を意味しているが、停泊した船が錨を上げて航海に出る旅立ちあるいは《テントをたたんで旅に出る》ことの比喩的表現だという。第二コリント5:1ではパウロは人間の体を天幕にたとえて「地上の幕屋がこわされると」といって死を間接的に示唆している、ローマイヤー。
しかしながら現代人の通常の考えとは違って、パウロにとってこの「撤去」は決して終わりではなく、むしろ新しい目標が設定される、それが「キリストと共にある」である。この言い回しは、極めて簡潔に、彼岸的なみ国の栄光について語っている。そのみ国では殉教者パウロは友のようにキリストと永遠に一つにされるのだ。 続