建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

キリストと共に(五)(六)

2000講壇5(2000/10/28~2000/12/3)

キリストと共に(五)
 「私が切望しているのは、(世を)発ち去って、キリストと共にいることである。そのほうがはるかによいからだ」。
 「世を発ち去る・アナルオー」は、死、旅立ち、を意味しているが、停泊した船が錨をあげて航海に出る旅立ち、あるいはテントをたたんで旅に出る、ことの比一喩的表現だという。第二コリント五:一では、パウロは人間の体を天幕にたとえて「地上の幕屋がこわされると」といって死を間接的に示唆している、ローマイヤー。
 ローマイヤーとバルトの解釈をとりあげたいまずローマイヤーから。現代人の通常の考えとはちがって、パウロにとってこの「旅立ち」は決して終りではなく、むしろ新しい目標が設定される、それが「キリストと共にある」である。この言い回しは、きわめて簡潔に彼岸的なみ国の栄光について語っている。そのみ国では殉教者、パウロは、友のようにキリストと永遠に一つにされるのだ。
 二一節では「生によってであれ死によってであれ、私の体でもってキリストが偉大なものとされる」とパウロは語った。殉教者の証言と苦難とは教会とこの世に対して(キリスト)を明らかにする。死はこの啓示に何も付加することはできないが、啓示を真実ならしめることはできる。『死は利益』(ニ一節)とすれば、それは殉教者パウロにとってのみそういえる。彼にとってのみ、死は殉教の栄冠、永遠なる《キリストと共にある》の祝福そのものに満ちたものとする。かくて死において実現されるのは、世に対するキリストの勝利ではなく、殉教者の個人的な運命である。福音の客観的な啓示ではなく、彼の個人的な救いである。それゆえ、死はパウロにとって『利益であり、はるかによいもの』である。かくてパウロが、死を『生よりよい』と語ったことが把握できるようになる。
 (ここではキルケゴールの述べた「主体的真理の証明方法」が想起されるべきだろう。主体的な真理は、「その真理のために血が流されることによって、殉教によって証明される」。したがってパウロの場合も、殉教一般も、福音という主体的真理に対する「血の証言」となる。多くの人を福音に注目させる、すなわち「キリストが偉大なものとされる」。結果的に殉教はキリスト者を生み出す、それゆえ教父テルトリアヌスが語ったように「殉教は教会の種である」)。
 ローマイヤーによれば『死を生よりよいもの』という言葉は、ヘレニズムやヘレニズムユダヤ教の人生観のペシミズムに根づいている(プラトンゴルギアス」、「ベンシラの知恵」四〇:二八)。表現的にはこのぺシミズムとパウロの言葉は類似してはいる。しかし、ヘレニズム的なペシミズムにおいては、課せられられた重荷や生への絶望から『死の賛美』に至って入るのに対して、ここでは、生は絶望の中にあるのでなく(こちらがだめだからあちらにでなく)すでに神的意味につらぬかれており、死はこの意味の個人的な完成に至るさらなる一歩にすぎない。
 バルトの注解。「パウロは、一般に《死後の生》について語ったのではなく、《キリストの生》について語っており、またおそらく彼の目前に追っている死がこの生にとって何を意味するかについて語っている。…パウロははっきり告白している『どちらを選べばよいか、わからない』と(ピリピ一:二二)。彼にわかっているのはこのことである、『生きるにも、死ぬにも主のものである』(ロマ一四:八)『覚めていても、眠っていても、主と共に生きている』(第一テサ五:一〇)。彼は第一の可能性のほうを眼前におく。
 『私はこの世から発ち去ってキリストと共にありたいと切望している』(二三)。続

キリストと共に(六) ピリピ一:二三
 彼は同時にキリストと共に死ぬことのほうが《もっと大きな》ことだ、ということを知つている。そのほうがどんなによいか知れない。なぜならそれは、キリストが彼の身体生活において偉大となりうる(二一節)、最後のものであり、完成された行為だからである。彼は他面でさらに生き続けることにも、然りを言わなければならない。なぜならそれは同じく主への奉仕(「業」二二節)においてもっと多くの『収穫』を意味するからだ」。
 バルトは「死は利益、生よりはるかに善いからだ」を、「自分の体をもってキリストが偉大なものとれる」21節と関連づけて、パウロの死、あるいはその死に方によってキリストが偉大なりと讚美される、と解釈している。殉教の死である。しかしキリスト者の死は多くの場合迫害のもとにあったとしても、殉教とは限らない。自然死(病死、老衰)が通常である。
 バルトの解釈はすぐれているが「死は利益」を、パウロは「死後の生」のありよう「キリストと共にある」との存在様式を述べたもので(バルトはこれを否定したが)、現在の生の存在様式「生はキリスト」(二一節)よりより善い、優れたものと考えていたと解釈したほうがよい。 この項完

 今回で来世のテーマを終り、これからは「希望について」の連載を始めたい。