建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

囚われ人の希望(3) 強制労働ー1

2000講壇6(2000/12/3~2001/6/17)

 囚われ人の希望(3) 強制労働ー1
 
 ドストエフスーは「心をこめた過度の仕事、これこそ一番の幸福です」と拘置所から兄宛の手紙に書いた。石川啄木も「こころよく我に働く仕事あれそれを仕遂げて死なんと思ふ」と歌った(「我を愛する歌」)。現代人にはこのような「心をこめたオーバー・ワークやこころよく働く仕事」は一部の例外をのぞいて、ほどんと与えられていない。私たち現代人は、どちらかといえば、仕事自体に意義とやりがいを見出すからではなく、給料がほしいから働くのである。仕事の意義が、仕事自体よりも仕事の報酬のほうに重点があって仕事が収入を得るための手段となっているとしたら、そこに恐ろしい転倒が起きていることになる。
 カール・マルクスが「労働による自己疎外」について語ったことはよく知られている。
 「労働者は自分の生命を対象(生産物)の中へと注ぎ込む。しかも対象に注ぎ込まれた生命は、もはや自分のものではなくなる。したがってこの生産物が大きくなればなるほど、労働者はますます自分を失っていく。労働者が自分の生産物の中に自分を外化するということは、単に自分の労働がある外的な現象的存在になるということばかりでなく、また自分の労働が、自分の外に、自分から独立して疎違なものとして現存すること、そして自分が与えた生命が自分に敵対的なもの、疎遠なものとして対立することを意味する。…彼は自分の労働において肯定されずに否定され、幸福とは感ぜずに不幸と感じ、彼の肉体は消耗し、精神は頽廃する。だから労働者は、労働の外で(休日や退社後)はじめて自分が《自分のもとにある》と感じ、他方労働の中では自分が《自分の外にある》と感じる。…次に、そのため労働はある欲求を満たすため(やりがいのある仕事をしたという目的のため)ではなく、労働以外のところでの諸要求を満たすため(収入を得るため)の手段にすぎなくなる。…人間がその中で自分を外化(疎外)する労働は、自己犠牲の、自分を苦しめる労働である。さらに労働者にとってこの《疎外された労働》は、その労働が自分自身のものではなく他人のものであること、これが労働者自身の喪失なのである」(「経済学・哲学草稿」一八四四、翻訳岩波文庫)。
 一九三五年、フランスの自動車工場において女工の奴隷的労働に八ヵ月間携わった哲学教師シモーヌ・ヴェーユ(一九〇九~四三)はその体験の一端をこうしるした、
 「奴隷的労働の隷属状態には二つの要素がある。スピードと命令。スピードとは注文を完了させるために、一つ一つの操作を思考よりも早く考え事のひまさえないほどずんずん続けてやらなければならない。いったん機械の前に立つたら、一日八時間自分の魂を殺し、思考を感情を殺ろさなければならない。命令とは出勤したら退社の時間まで、命令に黙つて服従しなければならない。自分が機嫌が悪くても、いらいらしていてもぐっとこらえなければならない。こちらの行動は四六時中労働に縛られている。こういう状況では人は意識をもつことができない」「土曜の午後と日曜日だけ、私は息をつき、自分を取りもどし、精神の中に思考の機能を取りもどした。こうゆう生活の中で一番打ち勝ちがたいのは、完全に思考を断念したくなる誘惑である」(「工場日記」、「労働と人生についても省察」一九五一所収、黒木義典訳)。ヴェーユの奴隷的労働は、むろんその肉体労働に対して賃金が支払われた(彼女の場合は「時給」であった)。
 囚われ人は共通して強制労働を課せられたが賃金は全く支払われなかった。言い換えると、娑婆の人間が労働に対してもつ収入を得るという労働の意味が、囚われ人には始めから奪われいたのだ。それでも彼らは働かされた。
 一銭にもならい労働を囚われ人はどのようにして遂行したのだろうか。
 ドストエフスキーは、囚人の強制労働の苦しさは、労働の内容や長さにあるのではなく、むしろ《強制されてしなければならないことにある》例えば自由な農夫は囚人よりもはるかに余計に働くが、はっきりした日的があって、また《強制されずに働く》のであるから、はるかに楽だ、と語っている。
 「死の家の記録」の中に、囚人たちが古い荷舟を解体するシーンがある。この作業で囚人たちの仕事ぶりが、監督の兵士たちの指図・監視のもとで定刻までやる場合と、他方仕事の全体量が始めから定められていて、手順や人員の配置については囚人たちの自主性、裁量に任される「請負い」の場合とでは、彼らの働きぶりがどのように変化したかが見事な筆致で描かれている。
 監督の指図で定刻までの場合、囚人たちは現場に着いても一人も作業に取りかからず、みな腰をおろし、中には長靴からたばこ入れを取り出して吸いはじめる者もいる。彼らは何度か、「請負い」を頼んだが監督の兵士は許可しなかった。やがて監督にどなられて、しぶしぶ腰をあげて河のほうへ下りていく。おっちょこちょいの一人が、張り切って作業に取りかかっても、誰も手をかさない。それどころか古参の仲間から、でしゃばりめと非難をあびた。早く始めろと、監督がまたどなる。一同はやっと作業を始めるが、気乗りしない投げやりの仕事ぶりで、古い木造の舟を解体して、舟体の太い材木を折らないで取りはずすよう指示されていたのに、かんじんの材木は折れてしまった。
 監督は技師を呼びにいった。やってきた技師は請負いを許可した。四本の太い材木を折らないで取りはずす、舟は解体する、それが終ったら帰ってもいい。
 「請負い仕事としてはこれはたいへんな量であった。しかし驚いたことに、一同の張りきりぶりはすさまじいものであった。あの大儀そうなそぶりはどこへ姿を隠してしまったのだ。斧の音が高らかに鳴り響き、木釘はつぎつぎに抜かれ始めた。ほかの連中は太い丸太を何本が下にあてがい、二〇本の手でそれにのしかかるようにして、元気いっばい手ぎわよく材木を取りはずした。材木は今度は少しも傷つけられずにそっくりそのまま無事に取りはずされたのには、私も思わずあっけにとられた。みんなが急に頭がよくなったようなあんばいであった。一人一人みんな、自分のすべきこと、なすべきこと、どこにいたらいいか、どんな注意を与えたらよいかを、ちゃんと心得ていた。終りの太鼓が鳴るきっかり三〇分前に決められた仕事はきちんとかたずいた。そして囚人たちは疲れていたが、すっかり満足して帰途についた」(第一巻の六)。
 ここには強制労働に「請負い」が導入されることで、強制の要素が減殺されると、囚人たちがどれほどよみがえったようになったか、監視や指図によっては阻まれていた自分の能力、熟練、自発性と創意を発揮するチャンスが与えられることで、どのように彼らに魂が吹きこまれたか、が生き生きと描写されている。
 そればかりではない。囚人たちが「一銭にもならない」その作業と格闘して「疲れてはいたがすっかり満足して帰途についた」事実は、現代の私たちの仕事への意味、収入のために働くという意義づけに対して重大な問いを投げかけている「収入を得るために働くというのが仕事の真の意味なのか、では一銭にもならない場合は働かないのか」と。さらに、監督の指図のもとでの囚人たちのやる気のない姿は、仕事の真の意味を求めてやまない彼らのプロテストの姿である。彼らが憧れ求めたのは「心をこめた過度の仕事」(ドストエフスキー)「快く働く仕事」(啄木)であった。

  仕事そのものは給料のためにやむなくしぶしぶやるものではなく、自発性に基づき、仕事自体にやりがいがあり、自分の個性、能力、創意を発揮できてそれに生涯打ち込めるような仕事、まさしくそのような作業に彼らはあこがれていたのだ。そのあこがれのゆえに、彼らは働いたのだ。
 シモーヌ・ヴェーユも《奴隷的な労働からの解放》の手段と考えたのは、労働時間の短縮や給料のアップ、単純作業のオートメイション化などではなく《働くことの究極性を獲得する》という見解であった。彼女はこの究極性として「美、詩、神」を労働者の世界に導入することをあげた。「労働者たちの条件は、人間存在そのものを構成している究極性が神によってしか満たされない、そのような条件である」(「奴隷的でない労働の第一条件」、「労働と人生についての省察」所収)。 続