建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

囚われ人の希望(3) 強制労働ー2

2000講壇6(2000/12/3~2001/6/17)

囚われ人の希望(3) 強制労働ー2

 さてドイツの神学者へルムート・ゴルヴィッアー(一九〇八~九三)は、ドイツ教会闘争の闘士マルチン・ニーメラー牧師がナチス・ドイツに抵抗して逮捕、拘束された後、ベルリンの教会の牧師となった。しかし彼自身も激しい抵抗をしたため、懲罰的に一兵士としてロシア戦線に送られた。そしてソ連軍の捕虜となり五年間、ラーゲル生活を強いられた。帰国後その体験を本に著した「欲せざることろに引かれ行く」(一九五一)。この本が出版された当時、彼はごりごりの反共主義者というレッテルをはられたという。戦後まだソ連の状況が欧米において正確に把握されていなかったために、彼が事実に即して自分の体験を書いても、ソ連ユートピアとみなしていた左翼の人や文化人らからこのレッテルをはられたようだ。私の知るかぎり彼自身は欧米の神学者の中で最もマルクス主義文献に造詣が深い。後に彼は「マルクス主義の宗教批判とキリスト教信仰」(一九六二)を著したほどだ。ソ連当局は彼をエージィエントとして使うために「特別訓練」をした事実についても彼は書いた。日本人のシベリア抑留体験記の嚆矢に属す高杉一郎の「極光のかげに」も出版当時(一九五〇年)同じように反共主義者と非難されたが、クールに読んでいくと、高杉の立場はソ連の善いところと悪いところを公平に評価していると思った。
 「使徒パウロに手紙にある(キリスト者の)奴隷に対して言われた言葉が、当時(古代ローマ)の人々にとってどんな意味をもっていたかを実際はっきり見えるようになったことも、ラーゲル(ソ連強制収容所)における体験の一つであった。当時の人々は理性的には人間らしい関わりなど生まれてこない奴隷の仕事に対して、あくまで人間らしく行動するための道をひらくことができたのだ。パウロは、奴隷のキリスト者に『あなたがたのすることを《人に対してではなく、主キリストに対してするように》魂を打ち込んでしなさい』(コロサイ三:二三)と語った。シャベルを一回土に押し込むという《強制労働》を《主キリストに対して仕えること》へと変えなければならない。しかしそれは言うに易く行い難い、という人もあるかもしれない。使徒のこの言葉は、決して外から、また上から要求として語られたものではなく、むしろ自分にもそのようなことが起こりうる可能性として約束されたものだ。そして現実に、この言葉によって活路が開かれた。すなわち強制労働はどんなことがあっても、強制労働であってはならない。《私は無意味な強制労働を意味の深いキリストへの奉仕と変えることができたのだ》。このやり方は、労働に対して主に仕えるという気持で立ち向かうことである。どこか気の向かない、食べるためにこき使われている人々は(今日こういう人は実に多いと思うが)必ずや納得してくれるだろう」(「欲せざる所へ引かれ行く」一九五一)。
 ゴルヴィッツアーの「強制労働をキリストへの奉仕に変える」という体験はすご味がある。彼自身は、別の箇所で「過ぎ行くものに意味を与えるのは、ただ不滅のものだけである」とのアウグスティヌスの言葉に言及している。これが彼の獲得した強制労働における「究極的なもの」であり、この認識が彼を五年間の奴隷的労働に耐えさせたのだと感じられる。
 旧ソ連の作家アレキサンダー・ソルジェニーツイン(一九一八~)の強制労働の体験を取り上げたい。彼は砲兵隊の将校としてナチス・ドイツと東部戦線で戦っていた時、友人への手紙に首相スターリンをちっと批判したことを書いたのが検閲に引つかかり、国家反逆罪に問われて戦線で逮捕され、政治囚として八年の刑を受けた(一九四五)。それで八年間のラーゲル生活と三年間の流刑生活を強いられた。二七~三九才まで時期である。彼の書いた作品はほどんとこの間の体験に基づいている。「イワン・デニソヴィチの一日」(一九六二、ノーベル文学賞に選ばれたが政府に出国を拒否された、後に映画化)は政治囚だけの特別収容所での体験、「第一圏(煉獄のなかで)」(一九六八)は数学者として特権囚だけの学者グループでの四年間の生活(後にテレビドラマ化)「ガン病棟」(一九六八)は出獄後、流刑地カザフスタンタシケントでガンのために一年間入院して治癒した体験、を基にしている。「収容所群島」(一九七二~七五)は一〇年間を費やして著したもので、ソ連のラーゲルものの集大成であり、邦訳で全六巻、二千四百ぺ-ジに及ぶ。この本の出版をめぐって彼は「作家同盟」を除名され国外追放処分となり、一九九五年に帰国をはたした。
 小説「イワン・デニソヴィチの一日」(木村浩訳)の中のよく知られた「モルタルで壁を積み上げるシーン」に言及したい。主人公イワン・デニソヴィチ・シューホフはラーゲル(強制収容所)の作業班の仲間たちと共に、高層住宅の建設現場の作業をしていた。マイナス二五度近い、ある極寒の日、シューホフは熟練の石工で、ブロックにモルタルをのせて壁をつくっていた。下でモルタルを火で暖める者たちがそれを桶にいれて階上に運ぶ。彼はそのモルタルをブロックに置いてコテを使って壁を高く積み上げている。もたもたしているとモルタルが凍ってしまう。
 「シューホフは湯気のたっているモルタルをコテですくいながら、てきばきと壁になすりつけ、同時に下段のブロックの継ぎ目がどこかちやんと頭にとめておく。彼はきっかり一個分だけのモルタルをなすりつけていく。それからブロックの山から目指す一個分を選び出す。それからもう一度、コテでモルタルをならし、その上にブロックをべタンと置く。…ちっとでも曲がっていれば、コテの柄でたたいてなおす。外側の壁が縦横どちらも下鉛の線と同じく垂直になっていなければならない。さて今度はブロックの下からモルタルがはみ出すようなことがあれば、コテの背で手早くけずり壁から払い落とさなくてはならない。次にまた、下段ブロックの継ぎ目を確かめる。最後に片目をつぶって水平を確かめる」。
 シューホフはじめ石工たちは、もう酷寒を感じていなかった。機敏な作業をしているのでたちまち全身がほてってきて、ジャケツの下も上下のシャツも汗ぱんできた。両足も寒さを感じなくなった。「モルタルをくれ」とシューホフは叫び、三段日を終えて四段目にかかる。「ブロックだ。さあブロックをもってこい」と班長がどなる。モルタルがあと一箱運ばれてくる。「いやまったくたいした張り切りようだ。もう五段目にかかっている」。しかしこの時、作業現場全体に終りを告げるレールをたたく音が聞こえてきた。
 モルタルをつくり過ぎて翌日まで残しておくと、カチカチに凍ってしまうので、使い切らなくてはならない。しかしすでに作業終了の合図があって全員集合しなければならない、遅れたら懲罰牢へぶちこまれる。ほかの班はどこも工具を返却してみんな集合場所に向っていた。シューホフは他の工具を返そうと言い、員数外の自分のコテ一本でねばることにした。
 「シューホフは笑顔になってブロックを積み続ける。…モルタルをべタン、ブロックをべタン、ぐっと一押してまっすぐかどうか確かめる。モルタル、ブロック、モルタル、ブロック。やっと終る。しかしシューホフはたとえいま護送兵に犬をけしかけられても、ちっと後に下がって、仕事のできばえを一目眺めずにはいられなかった。うむ悪くない。今度は壁に近づいて、右から左から壁の線を確かめる。さあ、この片目が水準器だ、ぴったりだ、まだこの腕も老いぼれていないな。それで初めてタラップを駆けおりた。彼は万事うまく運んで浮き浮きした気分になっていた。そして班長にこう冗談をとばした。『一日がこう短くちゃ本当にかなわねよ。仕事にかかったと思ったら、もう終りときちゃね」。
 ここを読んでいて、これがラーゲルにおける強制労働の描写なのかと不思議に思えてくる。この箇所は「モルタルで壁を積み上げるシーン」として有名になった。他方では「元特権囚やぶちこまれたことのない知識人の友人たちから《奴隷労働の賛美》」と批判された。それに対して彼は一〇年後こう反論した、
 「そのような労働の中にも生きがいを認めていいのではないか。…夜も昼も自分の労働を呪いながら、はたしてイワン・デニソヴィチに一〇年間を生き抜くことができたであろうか。…人間にはこんな面があるのだ。例えば、辛い呪われた仕事であっても、時にはわけのわからないほど熱中することもあるのだ。私も二年間手作業をやっていて、この不思議な気持を味わったことがある。…その仕事は奴隷的なものであって何ひとつ約束してくれるものがないと自ら承知していながら、突如としてそれに夢中になってしまうのだ。このような不思議を、私はレンガを壁に積み上げる作業でも、鋳造作業でも、大工作業でも、そして古くなった銑鉄をハンマーで砕く作業に夢中になった時にも体験したのだ。したがって、イワン・デニソヴィチがその避けられない労働を重荷と感じなくても、またその労働を常に憎悪しなくてもいいのではなかろうか」(「収容所群島」第二部第九章 一九七三、木村浩訳)。 続