建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

囚われ人の希望(6) 善意と愛

2000講壇6(2000/12/3~2001/6/17)

囚われ人の希望(6) 善意と愛
 ドストエフスキーは、西シベリアのオムスクの牢獄に他の囚人と護送される途中、トボリスクの町で、デカプリストの妻たち四人の慰問を受けた(一八五〇年一月)。デカプリストとは一八二五年一二月に反乱を企てた貴族、軍人たちのグループで「一二月党員」と呼ばれ、その多くがシベリアに流刑となった。プーシキンの詩「シベリアへ」は彼らへの篤い友情をうたった。当時の流刑は社会的身分が高い場合は牢獄には収監されず、一定の居留地に留められるもので、家族との同居も許された。その妻たちは流刑囚の夫を追ってシベリアにきていたのだ。デカプリストの四人の妻たちとは、ムラビヨワ夫人、アンネンコーワ夫人とその娘、それにフオンヴィージナ夫人であった(グロスマン「ドストエフスキー年譜」一九三五松浦健三訳)。ロシアの詩人ネクラーソフは、デカプリストの妻たちについて次のように讃えている、
 「それは生まれ故郷を捨てて旅立ち雪の荒野で死ぬことも厭わなかった人たちの話だ 魅力的なその姿!あなたがたはどこかの国の歴史でこれより素晴らしいものに出くわしたことがあるか?その人たちの名は忘れられるべきではない」(「ロシアの女」、グロスマン「ドストエフスキー」一九六五北垣信行訳)。
 アンネンコーワ夫人は零下三〇度の中オムスクまでの六四〇キロを馬そりで行くようにとりはからってくれた。
 ドストエフスキーは後に彼女たちとの面会をこう述べた、「われわれは、自発的に夫のあとを慕ってシベリアにやって来た、あの偉大な殉教者たちに出会った。彼女たちは何の罪もないのに、二五年の長きにわたって受刑者の夫たちが耐えてきたあらゆる苦しみを耐え忍んだのだった。われわれの面会時間は一時間だった。彼女たちは新たに旅立つわれわれを祝福し、一人一人に獄内で所持を許された唯一の書物である福音書を贈ってくれた」(「作家の日記」)。
 馬そりに揺られてオムスクに向うドストエフスキーの耳には、デカプリストの妻たちが口をそろえるようにして言った言葉がこびりついて離れなかった「あくまでも耐え忍ぶことです。背負わされた自分の十字架をどこまでもおとなしく背負っていくことです」(小沼文彦「ドストエフスキー」一九七七)。
 よく知られているように、彼女たちがプレゼントしてくれた福音書の表紙の裏には十ルーブリ紙幣が隠されていた。そのお金でドストエフスキーは獄中で牛肉を買って食べ、体力をつけることができた(出獄後兄宛ての手紙)。またその福音書を彼は生涯大切にして手放すことがなく、常に仕事机に置き、死の当日にもそれを読んで聞かせてくれようアンナ夫人に頼んだという。
 ドストエフスキーがデカプリストの妻たちの慰めと激励にどれほど力づけられたかは、出獄後ただちにフォン・ヴィージナ夫人にお礼かたがた手紙を書いた事実からも推察できる。
 この善意のもつ社会的な広がりについて、彼は後に「白痴」(一八六九)の中でこう語った、「人が自分の種子を自分の(慈善)を、たとえそれがどんな形であろうと、他の人に与えることは、自分の一部を与え、相手の人格の一部を受け入れることになるのさ。つまりその人たちと互いに交流することになるんだ。…その人のあらゆる思想、その人によって投じられ忘れられてしまった種子は、また血肉を付与されて生長していくんだ。人から授けられたものが、さらに別の人間にもそれを伝えていくんだ」(第三部の六、小沼訳)。
 他方、人は善意を受けるだけでは生きていけない、自ら愛することがなければ。ソルジェニーツインは女性の囚人について、こう語っている。「一方で女性の囚人たちは、将来の展望があまりに残酷で、しかも希望ひとつない状態でのもとで、間もなく、もっとも無鉄砲な女たちになっていく。他方で、特に政治囚の女性たちは男とねんごろになることを拒んだ」。このような状況で生まれたのが、きわめて精神的要素の強い愛であった。
 「神の祝福のもと、もはや肉の愛とは言えない愛が生まれるのであった。肉体関係をもたないために収容所での愛はいっそう精神的なものが深くなった。肉体関係をもたないためにその愛は娑婆よりもいっそう強くなったのだ。もう年配の女性だというのに、自分に向けられた偶然の微笑に、ちっとした注意を向けられたことに、夜も眠れなかったのである。その収容所の汚れて暗い生活のなかで、この愛だけが際立つていたのである」(「収容所群島」第三部第八章)。もはや若くもない女性にしても、特定の男の囚人との交際をして看守たちを困惑させたという。
 「これらの女性たちは情欲を求めたのではなく、誰かの世話をやき、誰かを暖めてやり自分のものを減らしても彼に食べさせ、彼のものを洗濯し、ぼろになったものを繕ってやりたい、という欲求を満たしたかったのである。一人の女性が医者に説明した『私は彼と寝たいのではなく、この獣のような生活の中で一日中喧嘩している時、頭の中で、今日は彼のシャツを繕いをしなければならいとか、じゃがいもを煮て彼と食べようかと考えることが楽しいのです』」
 ある夜収容所で素人演芸会が開かれた時、ジェーニヤという青年がギターの伴奏で「妻よ、妻よ」という歌をうたった。ギターからは素朴な悲しいメロディーが流れた。
 「『妻よ 妻よ ただおまえだけが ただおまえだけが 私の心のなかに生きている ただおまえだけだ』。場内の薄ぼんやりした暗闇の中に収容所の年月も、薄れて見えた。これまで過ごした長い年月も、これから過ごさなければならない長い年月も、等しく薄れて見えた。
 「…『ただおまえだけだ』、権力に対する架空の罪でもなければ、それに対する恨みでもない。いや、狼と化した私たちの毎日の心配事でもないのだ。『ただおまえだけだ! いとしい妻よ 私がどこにいようとも 誰よりもおまえが恋しく懐かしい!』。歌はいつまでも続く別離のことを歌っていた。音信不通のことを、互いに散り散りになったことを歌っていた。なんと私たちの心を打つたことか!薄ぼんやりした暗闇の中に二千人ほどの人々が座ったり、立つたりして、歌に聴きほれていた。じっと身じろぎもせずに聴いていた。場内には誰一人いないかのように静まりかえっていた。情けを忘れ、残忍になり、《石のような心を抱いた人々》が感激したのであった。涙が頬を伝わっていた。この連中にもまだ涙の出る通路が残っていたのだった」(「収容所群島」 第五部第五章)。
 ここの「石のような心」とは、旧約聖書のエゼキエル十一:一九にある「私(神)は彼らの身から《石の心》を除き《肉の心》を彼らに与える」に由来する。「石の心」とは捕囚の悲惨のゆえに頑なで捨てばちになった心のこと。囚人たちはこの歌で魂の奥底に沈潜していた妻や家族への愛情を瞬時かきたてられ、干からび枯れて非情になった心に暖かい血がかよい、人間的な感情「肉の心」がよみがえったのだ。