建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

囚われ人の希望(9) 期待の問題点

2000講壇6(2000/12/3~2001/6/17)

囚われ人の希望(9) 期待の問題点
 「奴隷の無関心さは、囚われ人の実存が《終末論的》であること(キリストの来臨とか特別の将来に規定されること、ここでは自分たちの帰郷の日に規定されること)と関連している。囚人の実存は、私の体験では原始教会の再臨待望で語られた、キリスト者の実存と途方もなく似たものとなった。囚われ人は自分の人生に何らかの待望なくしては待つことをしない。彼は決して希望のない隷属状態にあったのではなく実に多くのことを期待をしていた。彼は肉となった待望(die fieischgewordene Erwartung)であった。しかも彼はすべてを現在からではなく、将来から期待していた。ある定められた将来、聖書的に言うと『主の日』、その日によってのみ現在の生活が甲斐があるものとなり、その日からのみ現在の生活が意味を得るそのような『日』から、すべてを期待した。それゆえ収容所では自殺は驚くほど珍しかった。『その日』の話をすること彼の顔つきは輝き、その日のクライマックス、わが家の出迎えの時を何千回も、寝入る時も働いている時も詳細に心に描いたのだ。どの語らいもいつ人に会っても、『何か新しいことはないか、誰それがこう言ったのを聞いたか』というふうに、つきることのない問題は『この日』のことだった。ここでわかるのは、聖書の表現『ある遠い日を喜ぶ』(へブル一一・一三)のもつ意味である。というのは『その日』は喜びと生命とみなされたからである。現在は価値のないものになっていた。時間に対する囚われ人の終末論的な関係は、塗りつぶされるという点でしか現在に価値を与えなかった。『また一日減ったぞ』と寝る前にうれしそうにため息をつき、また作業のない待機の時には『こうしていれば囚われの生活が過ぎていく』との確信によって彼らは自らをなだめていた。捕虜の歩調は、ここでは時間を塗つぶすことのみが価値をもつが、時間を利用することにはまだ価値がないといった人々の歩きぶりを示していた。現在の生活は、そこから意味がもたらされるところの終末論的目標(帰国の日)への歩みとしてのみ生きる価値あるものとなった。その目標を別にすれば、現在の生活はそれ自体では無意味であった。またある少数者は取りちがいをして、暫定的なものから近視眼的な意味づけをすることで満足しようと試みていた。…さらに、なされたすべてが外国の権力に役立っていることから、この生活は無意味になつていた。私たちがあくせく働けば働くほど、彼らは利益を得る。私たち捕虜が入念に熱心に働けば彼らは私たちを釈放することに決して関心がなくむしろ可能な限り長く搾取しようとする。
 こうゆう状態を比喩によって理解した人は、私たち人間の生活がどうなっているかを認識したにちがいない。すなわち、私たちの生活がキリストと結びつけられているならば、奴隷化する外国の権力の支配から将来釈放されて、永続的な故郷にたどりつくことが約束されている。地上的なものの暫時性はもはや憂鬱なものとはならない。無常、死、世の終りはもはや恐怖の対象ではなくなる。憧憬は時間的なものを超えた彼方に向うからである。約束された将来からのみ、現在も意味をもち、しかも、現在のすべの苛酷さによっても廃棄されえないような確かな意味をもつのだ。むしろこの苛酷さは私には将来の解放の約束を聞き逃せないほど重要なものにするのに役立つのだ。『私にとって天国をますます甘美なものとし、この世をますます苦いものとしてください。騒がしき世において私が永遠を心に描くように』この種の讃美歌の歌詞は、現代では《この世からの逃避的なもの》として中傷されているが、今や新しい輝きを得て、この世を肯定するキリスト教の世界で、原始キリスト教の《希望に基づく現世蔑視》を自分の身をもって新たに理解することを学んだ気がした」(ゴルヴィッツアー「欲せざる所に引かれ行く」)。
 「今あるこの世は囚われの身である。キリストへの信仰は、将来の解放と帰還を知ることである。しかし信仰のない生活にはこの意味深い希望が欠落していた。この生活は無から来たりて無に行き着くように見える。それゆえその生活は囚われの身とも妥協しなければならないし、また現在が与えることができないにもかかわらず、現在からある意味を獲得すべく探さなければならない。そこには日標が欠けているから、今ある生活の途上で目標を探さなければならない。そういう生活は短い道程をあこがれ求めることをしないで、むしろ可能な限り長い期間を求める。その道の終りには希望ではなく、むしろ恐れが待ち構えている。その生活は暫定的で束の間の意味づけで満足しなければならないし、またたちまちその意味づけが役に立たなくなっても我慢しなければならない。アウグスティヌスがかつて言ったように、ただ永違のものだけが過ぎ行くものに意味を与えることができるからである。キリスト教の希望をもたない人間は、ここで外国の権力の奴隷の身においては外見上の自由のみが到達できる事柄と妥協しなければならない。そして他方で、現実の自由に希望をいだくことは現実的な幻想のように見えた」(ゴルヴィッアー「欲せざる所へ引かれゆく」)。
 「もはや将来帰郷できるかどうかからしか、現在のすべてを推量できない捕虜ほど愚かにふるまう者はいない。ところが多くの者がそうした。…捕虜であることを比喩で表すと、絶えず新たに妥当することがあって、これについて気の合ったグループで話し合ったものだ。キリスト教の希望のもとにある生活と無信仰で希望のない生活との違いは、まさしく私たち囚われ人と二五年の判決を受けた私たちの戦友との生活との違いである。私たちにとっては遅かれ早かれ帰郷という祝福の終りの日が眼前にあって、長い間苦しい道を耐えたことが報われる。これに対して、二五年刑の戦友は、もはや帰郷などいつの日か計算できないし、別の、故国での、自由な生活を想定することもできず、動物化した現在のこの生活と唯一のものとして妥協しなければならないことになろう。しかしながらここで、この例えは当を得ないものとなる。というのは最初の深い意気消沈においては、彼らには帰郷への希望は断ち切られたようにみえるからだ。それから、理性のすべての意気消沈させる論拠に逆らって、呼吸のように生まれる、希望をいだく行為が起き上がってきて、最後の日までそれを持ち続ける。…現在を無価値にすることは、キリスト教的に理解すると、現在それ自体はいかなる意味も持つてはいない、むしろすべては目標(帰郷の日)に関連づけられていた。しかしこれは、現在を真剣に受けとめなくてよいとか、現在は毎日の感謝に値しないとか、を言っているのではない。小さな喜びを喜びとして受けとめる能力、それほど価値のある対象でないせよ(終末論的にはどんなものであれ重要でないものはないのだが)喜ぶ能力はむしろ心を爽快にさせるために一つのきっかけさえあればよいとの、キリスト教の信仰と密接に関連したものも、また私たちをどのような逆境からも解放してくれる抵抗力となるものである」。