建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

囚われ人の希望(10) 苦しみの克服

2000講壇6(2000/12/3~2001/6/17)

囚われ人の希望(10)
苦しみの克服
 フランクルはこう述べている「囚人が現在の生活の《いかに生きるか》すなわち強制収容所の生活のすさまじさに内面的に抵抗して身を支えるためには、囚人に《なぜ生きるか》その生活の目的を意識させなければならない」。
 フランクルによれば、絶望した囚人たちは共通に「私はもはや人生から期待すべきものは何もない」と口にした。これに対して、彼は人生の意味への問いかけの百八十度の転換を提起する。「私たちが人生の意味を問うのではなく、むしろ人生の意味は私たち自身が問われた者として体験される」。この問いかけの逆転によって、もっとも大きな変化が起きる、自分の置かれた苦しい具体的状況が、ある場合には人に《その運命を自分の十字架として自ら率直に担うこと》を要求するのを承認するという変化である。フランクルはこう語る。
 「具体的な運命が人間にある苦悩を課すかぎり、人間はこの苦悩の中にも一つの課題、一回的な運命を見なければならない。この苦悩に対して、自分は苦悩に満ちた運命に、この世でただ一人で一度かぎり立ち向かっているという意識にまで達しなければならない。いかなる人も彼からこの苦悩を取り去ることはできない、いかなる人も彼の代わりにこの苦悩を苦しみぬくことはできない。まさしくこの運命に突き当った彼自身がその運命を担うことの中に、独自の業績に対するただ一度の可能性が存在する。…このような考えは私たちを救う唯一のものであった。というのはこの考えこそ、生命の助かる機会もない時に、私たちを絶望させなかった唯一の思想であったからだ。私たちに必要なのは死を含んだ生の意味、生きる意味ばかりでなく、苦悩と死を含む生全体の意味であった」。
 この箇所は強制収容所の生活について書かれた作品の中で、もっとも深い苦悩とその克服をしるしたものであると思う。キリスト教神学においては「アウシュヴィツ以後の神学」という表現があるが、フランクルの場合「アウシュヴイッツ以後の思想」といえる。
 フランクルの記述は、ギリシャ悲劇にあるプロメテウスの言葉「無数の苦悩と苦痛に身を屈することによって、鉄鎖から自由になることができる」(アイスキュロス「縛られたプロメテウス」)に似ている。
 プロメテウスはゼウスの下した外からの苦しみを自分の意志によって引き受け、その運命に身を屈して自らそれを担うことによって、自分の存在をその運命、苦しみと同一化する。この同一化によって彼はその運命を転換する。プロメテウスのこの見解は、いわば《超人的な苦悩を担いかつ苦悩の克服の仕方》であった。言い換えると、ドストエフスキー、ゴルヴィッアー、ソルジェニーツインの場合よりも、ナチス強制収容所におけるフランクルの場合には、超人的な苦悩の体験とその克服を要求されたといえる。それほどナチス強制収容所は残酷で、非人道的なものであった。
 ちなみにイタリアのレーヴィは自らのアウシュヴィッツの体験をふまえてこう語る。ナチス強制収容所は虐殺、絶減を目的としていた。死亡率は九〇~九八%であった。これに対してソ連のラーゲル(収容所)の場合には、刑期があって(ドイツや日本人捕虜の場合は、あらかじめ宣告はされなかったが、通常二~五年間であった、筆者)、二十年の刑期の人もわずかとはいえ自由になる望みはあった。そこでは飢え、寒さ、衰弱、病気による死者が出たが、死亡率はもっとも苛酷な時期でも三〇%であった(ドイツ人捕虜の死亡率は十%、日本人捕虜の場合は全体約六〇万のうち約六万人が死亡、率で十%、筆者)。レーヴィは両者の違いをきちんとふまえながらも、ラーゲルの存在はソ連社会主義を汚していると主張する(「アウシュヴィッツは終らない」一九七六)。
 囚人においては現在の「閉ざされた時空」を打ち破って、外の世界との間に架け橋がつくられることをとおして、自分の生きる意味や自分の将来を獲得したこともあった。
 フランクルは、二人の囚人仲間が「もはや人生からは何も期待できない」と口にして自殺を企てた時、彼らにとっての閉ざされた時間、失われた将来という考えを打破しようと試みた。
 「二人に対して、人生は彼らからまだあるものを期待し、人生は将来において彼らを待っていることを示すことに私は成功したのだ。事実、一人の人間には、彼が並はずれた愛情をもっている一人の子供が外国で彼を《待っていた》。もう一人には、仕事が《待っていた》。彼は科学者としてあるテーマについて本を書いていたが、まだ未完でその完結が待たれていたのだ。…個々の人間を特徴づけ個々の存在に意味を与える唯一性や独一性は、創造的な仕事ばかりでなく、他の人とその愛にもあてはまるのだ。個人の持つ、他の人と取り換えできないという性質、かけがいのなさは、その人間が自分の人生、生き続けることによってになう責任の大きさを明らかにする。待っている人間、待っている仕事に対してもつ自分の責任を意識した人間は、決して自分の生命を放棄することができない。その人間は自分の存在の《なぜ》を知っているゆえに、《どのようないかに》にも耐えることができるのである」。
 この部分はフランクルの著作の中で一番印象に残る。
 囚われ人の発言「もはやこの人生には何も期待できない」は実は「閉ざされた時空」において、現在から将来が消失し、鉄条細の外側の世界が消失したこと「閉ざされた時空」自体を告げている。この「時空」を壊して、外界、将来と架け橋をつくる、これが希望をいだく、という行為である。マルセルは「希望とは、四方を壁で閉ざされた状況で、その壁に穴を穿つ行為だ」と語った(「希望の現象学」)。
 「閉ざされた時空に穴を穿つ」行為として想起される事柄として、旧約聖書における囚われ人、エジプトにおけるイスラエルに対するモーセの「出エジプト」の預言活動、バビロニアの捕囚の民に対する第二イザヤの預言などもある(後述)。