建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

囚われ人の希望(12)「石の下の詩と真実」

2000講壇6(2000/12/3~2001/6/17)

囚われ人の希望(12)「石の下の詩と真実」

 この数年の間に「囚われ人の希望」の形のうちで、ひときわリアルに感じだしてきたものがある。それはソルジェニーツインが「収容所群島」の第五章で述べている「石の下の詩と真実」における希望のポイントである。
 ソルジェニーツィンは収容所に入って四年目から《叙事詩を書き始めた》という。収容所では鉛筆と白紙をもつことは許されていた。しかし文字を書きつけた紙をもつことは許されなかった。絶えず密告者への警戒を余儀なくされたし、また強制労働についている者には朝夕二回の身体検査があった。それでやむをえず彼は《記憶》という方法をとることにした。
 日本のシベリア抑留者についてのドキメント、辺見純の「語られた遺書」において、なぜシベリアで倒れた友の遺書が「書かれた遣書」でなく、「語られた遺書」なのか。少し長い友の、妻子への遺書を仲間数人が分担して「暗記」し、帰国の後に友の家族の前でその「遺書を語ることができる」ように、各人が友の遺書の一部を「記憶して」帰国する手筈をとった。帰国の折の身体、検査は厳しく手記や遺書など発見されれば、即座に没収された。また懲罰として帰国がずっと先に延期されることがわかっていたからだ。
 ソルジェニーツィンは、書いたものを詩の形にまとめることにした。まず小さな紙切れに一〇~二〇行ぐらいずつ書きつけ、それを推敲してから《記憶し》その後、ただちに書きつけを燃き捨ててしまう。そのようにして《記憶したもの》を、月に一度全部復唱したという。彼が書いた冬の時期には、作業の休み時間、暖をとる部屋で、春と夏の時期には、レンガ積みの作業中次のモルタルがくるまでの間、紙切れをレンガのうえに置いて、人に見られないようにして、浮かんできた言葉を書きつけた。
 「この詩作はたいへん役に立って、私の肉体にどんな異常があってもそれを忘れさせてくれる効力を持っていた。時には看守たちにどなられて、意気消沈した隊列のなかで歩いている時にも、私は次々に湧いてくる詩と形象の勢いに押されて、まるで隊列の上空を飛んでいるような気分がしたものだ。一刻も早く作業につきたい。そしてどこかに身を隠して、その詩を紙に書きつけたいという気持にかられたのだ。そんな時私は自由で幸せであった」
 このようにして彼は、刑期が終るまでに、詩と戯曲を一万二千行も書いたという。
 「私は夢の中で生きている心地だった。食堂で野菜スープを食べていてもその味がわからない時もあったし、周囲の人々の話し声が耳にはいらないこともあった。なにしろ私は詩のことしか考えず、絶えずその行をいじっては壁に積む煉瓦のようにきちんと整理していた。私は身体検査を受け、人員点呼され、隊列に組み込まれてステップを狩りたてられいたが、頭の中には自分の戯曲しかなかった。…私は自分の周囲に有刺鉄線なぞないかのような日々を送っていた」(「収容所群島」第五章「石の下の詩と真実」)。
 これはむろん通常の状態にある人の経験ではなく、特殊な旧ソ連のラーゲルの「囚われ人」のものだ。しかし生活のために気にそまない労働を余儀なくされている「娑婆の人間」にも強く訴えかけてくる「希望の形」である。彼の場合は「詩作」であったが、自分にやり遂げたい「仕事、著述」があって「気にそまない労働」をしながら、それを仕上げたい人間にとって、それを支えるのはほかでもない「その仕事、著述」なのだ。あるいは、シモーヌ・ヴェーユやゴルヴィッアーが語った「無意味な、やりがいのないものに意味を与える永遠性」と表現してもいい。カフカの「城」のヒロイン、オリガのように、自分のやっていることを天なる神だけは見ていてくださっているとの意識といってもいい。気にそまない労働に対して嫌気がさして愚痴をいったり「酒で憂さ晴らし」したり、おもしろくもない娯楽的な読書で気を紛らわせたりするのは、自分の人生がまだまだ長く残されているとみなしている人間なのだ。自分の人生の終りを知り、かつ気にそまない労働自体を「超えた視点」をもって、その辛さを物ともしないで自分の著述に打ち込むこと、このような人間にソルジェニーツィンの述べた「この希望の形」は共鳴するものがある。