建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

旧約聖書における絶望と希望(一)アブラハムの試練ー1

2001講壇(2001/6/17~2002/2/3)

旧約聖書における絶望と希望(一)

アブラハムの試練ー1
 アブラハムに待望の子イサクが生まれた(創世二一章、「イサク」という名は子の誕生の予告の時、こんな老齢の夫婦に子など生まれるはずがないとの、アブラハムの「笑い」に由来している、意味も「笑い」)。彼はすでに九〇才を過ぎていた。その子が一〇才くらいになった時、アブラハムはこれまで一度も出会ったことのないような辛い体験、試練にあわされた。
 「神はアブラハムを試みて言われた『あなたの息子、あなたが愛してきたひとり息子、イサクを連れてモリアの地に行き、私が示す山でイサクをは燔祭として献げなさい』」(二二:二、フォン・ラート訳)。ここでの「燔祭として献げる」というのは、神へ動物犠牲を献げる儀式のことで、羊などを殺してそれをまるごと火で焼きその芳しい煙を神に供物として捧げること。したがって「イサクを燔祭として献げよ」ということは、イサクを殺して神に献げる恐ろしい命令を神が与えられたことになる。「しかしアブラハムにとってイサクは神の約束の賜物であって、イサクには神がアブラハムを与えた祝福のすべてが含まれている」(フォン・ラート「説教・瞑想」)。ところが神は今やこの命令をもってこれまでのアブラハムへの約束と祝福を否定しようとされている。「神がご自身の業の敵対者として人間のもとに立ち、かつあまりに深くその姿を隠されたのだ」(フォン・ラート)。このような状況を聖書は「試練」と呼ぶ(二二:一)。試練とは、その人間が通常以上の苦悩を体験するということだけではない。その人間の従来の信仰の危機、それまで信じていた神の存在が動揺すること、すなわち「神がそのままでは見分けがつかなくなる」ことである(カール・バルト「ヨブ」)。旧約聖書はこの体験を「神がみ顔を隠される」(イザヤ八章)、「神に見捨てられる」体験と呼んだ(イザヤ四九:一四、詩篇二二:一、四三:二、マタイ二七:四五など)。「私たちにとって神の恵みの太陽が蝕となり、神の近さと慰め、守り、神への希望が消え失せようとする時、かかる厳しい試練の中で神は私たちの信仰を吟味しようとしておられることを知るべきである。しかも、かかる試練を終らせることができるのも神のみである」(フォン・ラート、前掲書)。
 「アブラハムは朝早く起きて、ろばに鞍を置き、二人の若者と子イサクを連れて、また燔祭の薪を割り、立って神が示されたところに出かけた」(二二・三)。
 試練に出会ったヨブと比べて、アブラハムにはヨブのようなプロメテウス的な反抗(アイスキュロス「縛られたプロメテウス」参照)が起きていない点は私たちの目をひく。
 むしろここには、彼が故郷を出発した時の(創世一二:四「アブラハムはヤハウエの言葉どうりに出で立った」)「沈黙の神服従」のトーンが響いていて、彼が神の命令どおり目的地に出発した行動がクールなタッチでしるされていて印象的である。
 さて一行が目的地に着くと(「モリアの地」がどこかは明らかでない)、アブラハムはイサクと二人だけで当の場所に登っていった。イサクは彼にたずねた「父よ、火(たね火)と薪はありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」(二二:七、八)。彼は答えた「子よ、神御自ら燔祭の小羊を備えてくださるであろう」。アブラハムの答は、言い逃れではないにせよ、あいまいなものである。彼は神が「イサク以外の小羊を備えてくださる」とほんとうに信じていて、その答をしたのかもしれない。あるいは、イサクを神に献げよう(殺そう)と考えていたが、それをイサクに悟られまいとしてあの答をしたのかもしれない。あるいはイサクの質問に答えられるのは、彼自身ではなく神ご自身のみであること、これから何が起こるのか自分でもわからない、ということをあの答で告げようとしたかもしれない。いずれにしても、アブラハムのあの答はイサクへのこまやかな愛情から出たものではあっても、決して「希望を予感したものではない」(フォン・ラート)。
 キルケゴールがこの箇所を手がかりにして、アブラハムの試練について考察し、彼がどのような気持で目的地に向ったかを分析したことはよく知られている(「畏れとおののき」一八四三、桝田啓三郎訳)。
 「アブラハムはあきらめの無限の運動をなしそしてイサクを捨てる。…しかしその後で、彼はあらゆる瞬間に信仰の運動を行なう。すなわち彼は言う、そのこと(自分の手で犠牲として献げられてイサクが死ぬこと)はきっと起こらないだろう。もし起こるとしても、主は背理的な力によって新しいイサクを私に与えたもうであろう」(キルケゴール、前掲書)。
 キルケゴールはこの試練が族長だけに課せられたもの、それゆえ後の他の人々には耐えられない、例外的なものであることをきちんと把握している。しかし彼の解釈は、いくつかの点で問題となる。
 一つは、目的地に向うアブラハムの気持を明るく、希望を予感したものとみなしすぎている点である。アブラハムが二つの運動、一方ではイサクをあきらめ、他方では、新しいイサクを再び与えられると、考えていたとキルケゴールはみるが、神による「試練」とは、それまで自分なりにわかっていた神がわからなくなる「神の蝕」(マルチン・ブーバー)の中に置かれることであって、そこには「希望の予感」すなわち「主は新しいイサクを与えてくださる」といった余地は入りこめないはずだ。ここでのアブラハムはやはり決定的な「神の消滅点」を見た、すなわち、イサクの断念しかできなかったのではないか。キルケゴールは「信仰の逆説性」を主張し、またそれにこだわっているが、イサクの断念と神による新しいイサクの贈与との「逆説」は、アブラハムには成立しないのではないか。
 新約聖書へブル一一章もアブラハムがその時点でイサクを「全面的に断念した」と解釈した
 「試練を受けた時、信仰によってアブラハムはイサク《献げた》。彼は約束されていたひとり子を《断念したのだ》。その子については『イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれるだろう』(創世二一:一)と言われていた。しかしアブラハムは神が死人の中から人をよみがえらせる力があると考えた。それゆえ彼は《イサクを(復活の)比喩として取りもどしたのだ》」(一一:一七~一九、ミヘル訳)。 続