建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

旧約聖書における絶望と希望(一)アブラハムの試練ー2

2001講壇(2001/6/17~2002/2/3)

旧約聖書における絶望と希望(一)

アブラハムの試練ー2
 ここでの「献げる」「断念する」(ギリシャ語フロスフェロー)はルター訳も、ミヘル訳も共に「dahingabすなわち、犠牲にした、捨てた、断念した」と訳した。「イサクを献げる」行為を「イサクを断念する」行為と解釈しているのだ。一九節「イサクを復活の比喩として取りもどした」においては、イサクの「復活」が「比喩として」ふまえられている。「イサクの断念」は「神が死人を再びよがえらせる力がある」ことに関連づけられて「イサクの死」(実際の死でなく)「比喩的死」を意味している。アブラハムにとって「イサクを取りもどした」は「イサクを死から取りもどした」という意味である。しかしイサクは現実に死んだわけではないから、その死も「比喩的な死」である。それゆえへブル書は「(「復活の」、この語は原文にないが、ミヘルもこの語を補っている)比喩としてイサクを取りもどした」としるした。イサクの「取りもどし」は「復活の比喩」すなわち「死人から復活した者として、もう一度イサクを取りもどした」こと、言い換えると、イサクの断念は「他方における神による新しいイサクの授与」(キルケゴール)をいささかも、含んでいないで、むしろイサクの死のみを意味していた。イサク断念の時点ではアブラハムはいささかも「イサクの新たな取りもどし」を信じていなかったし、信じることができなかった、と私たちは考える。それゆえキルケゴールの「イサク断念とイサクの新しい受け取りなおしとの逆説性」には反対したい。
 キルケゴールの解釈の第二の問題点は、アブラハムがどのような気持でモリアの地に向かい、当の場所に近づいたのかについて比類なき心理的洞察をキルケゴールはしたが、創世記二二章の記事は、アブラハムの内面の思いなど全くしるしていない点である。むしろこの記事は、神の約束(イサクの誕生と子孫の増大、一五章)を受けた人物がその恵みにふさわしいかどうか、約束の賜物、イサクを真に自分の自由にならない《賜物》として把握しているか、イサクを自分の自由になる《所有物》としてはいないか、神からその賜物の返却を求められられれば神にお返しする用意があるかどうかを、その人物が厳しく吟味され、試された、その場合、吟味される当人の気持など少しも考慮に入れないとしるしている。この点でこの記事内容は「倫理的、内在的」ではなくいわば「超越的」である。アブラハムの旅立ちにしても(一二章)、ここでも(二二章)、この記事の語り手は「アブラハムの心に去来したすべてを取るに足りない事柄として無視している。しかも他方では彼の沈黙のままの神服従を忘れがたい簡潔さをもって描いている」(フォン・ラート「説教・瞑想」)。
 さて、当の場所においてアブラハムが祭壇を築き、薪を並べその子を縛って祭壇の薪の上にのせ、刃物を取ってその子を殺そうとした時、神のみ使いが介入してきて言った「わらべに手をかけてはならない。また彼に何もしてはならない。あなたが神を畏れ、あなたの子あなたのひとり子をさえ私のために惜しまないのを、私は今知つた」(創世二二:九~一二)。アブラハムが目をあげてみると、やぶに角をかけている一頭の雄羊がいた。彼はそれを捕らえてその子の代わりに燔祭として献げた(二二:一三)。
 イサクが再び神によってもどされた時、アブラハムが《喜びの声》をあげたとはしるされていない。これも「一切の感傷的な手立てとは全くかけ離れた、古代の作品の偉大さを示すものである」(フォン・ラート)。
 キルケゴールの解釈の第三の問題点として、アブラハムはモリアの地に向った時、キルケゴールの解釈したように、一方でイサクを断念し他方ではイサクの受け取りなおしを考えていたとは、考えない。
 子に問いかけられて返答した彼の言葉にみられるように(二二:八「神自からが燔祭の小羊をそなえてくださる」)、私は《アブラハムはあの命令によって深い絶望に陥ったと考える。しかし絶望しつつ神の命令を無視することなくむしろ絶望しながらも彼は神に服従した》と私は解釈したい。アブラハムのイサク奉献は《絶望者の神服従》であった。この行動は、空前絶後のものであって、比較しうるのはゲッセマネと十字架上のイエス・キリストのみであったろうと思える。
 私は一八才ころはじめてキルケゴールの「畏れとおののき」を読んでそこで展開されていた「倫理的なものの目的論的中断」という見解がそのころの私の苦悩を支えてくれた。それ以来ずっとアブラハムのことも考えてきた。そして自分なりに彼のイサク奉献を先のように解釈していた。四〇代になって、ブリジストン美術館でのエルミタージュ絵画展で、一七世紀オランダの画家レンブラントの描いた「アブラハムによる犠牲」(一六三五)という、障子一枚ぐらいある絵をみてぎょっとした。この絵には神のみ使いが介入する瞬間(先の二二:九以下)がみごとに表現されていた。み使いに押し止められてアブラハムの右手からナイフがとり落とされ落下中で、彼の眼差しは《不可解なこと》に触れた者のもので、静かにもの問いたげであるが《喜びの表情はない》。そして私を釘づけにしたのは、彼の目尻と頬にある二すじの涙のあとであった。この物問いたげな眼差しと頬の涙のあと、によって、レンブラントは、アブラハムの感謝、神の触、試練の中で絶望しつつ自分ではわからなくなり信じられなくなったってしまった神に服従したアブラハムが、もう一度試練の彼方に神の備えたもう希望を抱くことができた、そのことへの感謝を絵で表現したのだと私は考えた。神の与えたもう試練の中で絶望した者に、神はその試練を終らせて、その者に再び希望を再び与えてくださるのである。その意味で、神はアブラハムにとって、また絶望の体験のある私たちにとっても「あなたは絶望した者の救い主」でありたもう(旧約聖書外典 ユディト書九:一一)。