建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

旧約聖書における絶望と希望(四)イザヤ

2001講壇(2001/6/17~2002/2/3)

旧約聖書における絶望と希望(四)

イザヤ
 ここでのイザヤは、イザヤ書一~三九章にその預言活動が残されている預言者のこと、四〇~五五章を残した第二イザヤとは区別される。
 イザヤの活動の舞台は、南王国ユダの都エルサレム。活動の時期は前七四〇~七〇〇年ころ(彼が預言者となる召命を受けたのは、前七四二年「ウジア王の死んだ年」六:一という)。北王国で活動した先のホセアよりも一〇年くらい遅く、彼は活動を開始した。イザヤはエルサレムに住んでいた都会人で、王と直接会見することができる高貴な家柄の出である。
 イザヤは結婚していて、二人の子がいて、弟子たちがいた。
イザヤの活動は、南王国の動乱の時期にあたる。前七三四年「シリア・エフライム戦争」が起きた。強大なアッシリアに対して、シリアと北王国イスラエルは「反アッシリア同盟」を結び、その同盟に加わるように南王国のアハズ王(在位七三五~七一五)に迫った。しかしアハズ王がこれを拒否したので、シリアとイスラエル両軍が侵攻してきてエルサレムを包囲した(列王下一六章、イザヤ七章)。動揺した王アハズは、イザヤの預言を受け入れることをせずアッシリアの王テグラピレセルに救援を求めたので、王は軍隊を派遣してきた。派遣軍はシエイアを征服し、北王国イスラエルの重要な地域の大部分を奪取した(列王下一五章)。また住民の上層階級を捕囚にして都アッシュールに引いて行った。
 前七二二年、アッシリアの王、シャルマヌセルは北王国イスラエルに侵攻してきて、首都サマリアを陥落させて北王国を滅亡させた。以後北王国イスラエルアッシリアの属領となった。その結果南王国ユダは直接アッシリアと国境を接することになった。アッシリアの大帝国の国境は、エルサレムの北、数キロのことろに置かれることとなった(フォン・ラート「旧約聖書神学」第二巻)。
 アハズの子、ヒゼキヤ王(在位七一五~六八七)は、エジプトの勢力を頼みにしてアッシリアの宗主権からの離脱・独立政策、反アッシリア政策を取って、それに基づく行動をとった。それでアッシリアの王センナケリブが南王国に侵攻してきて、四六の防備のある町を次々に陥落させ、エルサレムに追った。ヒゼキア王は使者を派遣してセンナケリブに降伏を申し出た(前七〇〇年、列王下一八章)。その結果、ヒゼキア王は神殿と王の蔵にある銀すべてをセンナケリブに差し出した。また領土の四分の三は没収され、親アッシリア的なぺリシテの諸候に分与された。
 イザヤは三〇数年にわたるこのような政治的激動の目撃者であり、王の対外政策への批判など自らも政治的発言、活動を行なった。彼の希望についての預言も、この文脈の中で語られている。イザヤの希望について「静かにふるまうこと」を取り上げたい。

「静かにふるまうこと」
 先にふれた、シリア・エフライム連合軍がエルサレムを包囲して攻撃した時のことであるが、「アハズ王の心と民の心とは、風にそよぐ林の木のように、動揺した」(イザヤ七:二)。この時イザヤは王に会見して、神の言葉としてこう語った、
 「気をつけて、静かにふるまいなさい。意気消沈してはならない」(七:四)
 「あなたがたは信じないならば、立つことができない」(七:九)。
 しかしながらアハズ王はイザヤの言葉を聞き入れずに、アッシリ王に救援を求めた。イザヤの言葉「静かにふるまうこと・ハシケート」(七:四)は、消極的にはアッシリアの軍事的な救援を求める試みとは手を切ること、積極的には、他国の軍事的な力、シリア・エフライムの軍勢に「意気消沈してはならない、恐れてはならない」(七:四)、むしろただ神、ヤハウエのみを恐れヤハウエのみを信じる行動である。「信じる」(七:九)は、「自己救済から離れること、神の行動に余地を残しておくこと、自分たちの政治的軍事的な関与(大帝国への救援の依頼など)によって神の働きの場をふさがないこと」を意味している(フォン・ラート)。ほぼ三〇年後、次の王ヒゼキヤがエジプトの政治的軍事的力に依拠して、反アッシリア同盟を結んだ時、イザヤはこれを批判した(三〇:二~三)。
「彼ら(ヒゼキアとその側近)は、私の口に問いかけることをせずに、
 エジプトに下っていって、パロに避け所を得、エジプトの影に隠れる。
 パロの避け所はあなたがたの恥となり、エジプトの影に隠れることは不面目となる」
イザヤはこう続ける、
 「主なるヤハウエ、イスラエルの聖者はこう言われる、
  立ち帰って《平静にしている》ならば、あなたがたは救われ、
 《静かにふるまい、信頼すること》であなたがたは力を得る」(三〇:一五)。
 ここの「平静にしている・ナハート」はカイザー訳。ルタ-、関根訳は「静かにする」。
 「静かにふるまう・ハシケート」はカイザー訳、ルター訳は「静かにしていること」、関根訳は「動くことなく」。「信頼すること・ビトハー」はむろん、神に「依り頼むこと」関根訳。この用語「信頼する」は希望の用語群に属す(ヴォシュッツ)。これをルター訳は「希望をもつこと」との適訳をつけた。
 ここでの「静かにふるまうこと」は、イザヤがヒゼキヤ王の政策を批判したように(「しかしあなたがたはこれを欲しなかった」三〇:一五)、エジプトの政治的軍事的力に依拠した行動をとるのとは全く別の行動を意味していた。他方この「静かにふるまうこと」は、政治的な領域から撤退して、非政治的な、隠遁主義的な行動をも意味していない。イザヤにとってこの用語は、「魂の内面的に静かな状態」ばかりでなく、それ以上の意味、すなわち「まったく特定の政治的な態度」を意味していたからだ、とフォン・ラートはみる。トレルチはイザヤが「ユートピア的なものを考えていた」とみなし旧約学者ヴィルトワインは「恐れず落ち着いて戦開をおこなうよう警告した」と主張した(ラートによる)。マルチン・ブーバーは、イザヤが「信頼すべき政治的なプログラムを構想していた」と解釈した(「預言者の研究」)。ラート自身は「静かにして、希望をもつ」を地上的な政治・軍事力に依拠することを放棄して、将来におけるヤハウエの歴史への介入に依拠すること、とみなした。「イザヤは、人々に対して自分たちの実存を神の将来の行為に置くように要求した」。
 しかしながら「いかにして希望をいだくか」という視点からみて、このような希望をもつことは、はたして可能であろうか。
 話をシリア・エフライム戦争の時期にもどしたい。先に言及したように、アハズ王は、イザヤの預言「静かにふるまう」行動をしりぞけて、アッシリアに救援を求めた。それゆえ神は「ヤコブの家からみ顔を隠したもうた」(八:一七)。その時イザヤは、こう語った
 「私は証言を一つにまとめ、教えをわが弟子たちのうちに封じておこう。
  私は、ヤコブの家にみ顔を隠しておられるヤハウエを《待ち望み》、
  ヤハウエに《希望をいだく》。
  見よ、私とヤハウエが私に与えられた子らは、
  シオンの山に住まわれる万軍のヤハウエによって、
  イスラエルの中のしるし、前ぶれである」(八:一六~一八、カイザー訳)。
 王と側近のアッシリアへの救援依頼は、王らの背信と頑なさを意味している。「ヤハウエが民にみ顔を隠される」とは、神が王らが神の言葉をしりぞけるままに捨ておかれたという意味であろう。イザヤはエルサレム包囲という危機的状況でなした預言の言葉・使信を来るべき日のために記録して封印しておくという。そしてイザヤは、南王国に対してみ顔を隠され、手を引いてしまわれた《ヤハウエを待ち望み、ヤハウエに希望をいだく》という。

 「何を待ち望むか」については「国家的崩壊の彼方でヤハウエが新しい救いへの転回をなさる可能性に期待した」(カイザーの解釈)、また「将来的な神の救いの行為・出来事に自分の実存を託す」(フォン・ラート)とも解釈できる。これこそがイザヤが王に告げた「静かにふるまうこと」の意味でもある。
 しかも「どのように希望をいだくか」という視点からみると、国家の危急存亡の時点でさらに神がこの王家と民から手を引かれた状況で、すなわち人間的にはとても神に希望をいだくことができない事態の中で、なおも神を待ち望む預言者とその子らと弟子集団が存在すること、これが、将来における神の介入、神の救いの業への希望の「しるし、前ぶれ」となる。これが希望をいだくことなく頑なな者にとって、神に希望をいだく根拠となる。
 特にイザヤの長男の名「シェアル・ヤシューブ・残りの者は帰る」(七:三)は示唆的である。「残りの者」とは戦乱で絶滅を免れた残存者を表現している。「残りの者は帰る」は、残存者は神に立ち帰り、救いを経験するという意味である(ツインメリ)。人間的にはとても希望をいだくことができない状況のもとで、なおも神の、将来的な救いを待ち望む人々、預言者とその子らと弟子たちが存在することによって、その絶望的な状況は「神の将来的救いを待望しうる状況」へと変貎するのである。