建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

旧約聖書における絶望と希望(五)エレミヤー1

2001講壇(2001/6/17~2002/2/3)

旧約聖書における絶望と希望(五)エレミヤー1

エレミヤの絶望
 エレミアの預言には、神との格闘を表現した「エレミヤの告白録」がある(一二:一~五、一五:一〇~一二、一八:一八~二三、二〇:七~一八など)。このうち一五章は「エレミヤの告白録」の中心的箇所である、
 「ああ、私は災いだ、母よ、なぜ私を産んだのか。
  私は世のすべての人と争い、口論している
  私は誰の債権者となったことも、また債務者になったこともないのに
  にもかかわらず、すべての者が私を呪っている。
  ヤハウエよ、まことに私は、善きことのためにあなたに仕え、
  敵が災いと困難な時に、私は彼らのためにあなたに執り成しをした。
  私は鉄と青銅を砕いた」(一五:一〇~一二、ワイザー訳。一二節「鉄と青銅を砕いた」は、最後まで努力しつくす、の意味。関根注解)。
 エレミヤは預言者としての自己と人間としての自己との分裂、緊張関係に苦悩した空前絶後の人物であった。神に徹底して従う者を神が見捨てられるという神の摂理を、体現した希有の存在である。神との壮絶な闘争をしたヨブも、祝福された結末を味わったが、エレミヤは、神に捨てられた者に与えられるはずの、幸福な結末を味わうことはできなかった。
 「エレミヤは神と民のための仲介者であった。神と民との関係がもたらした緊張に、彼の知と情と意は巻き込まれてしまった。民はもはや彼に我慢できなかったし、また彼ももはや神の言葉の宣教の職務を達成できないと悟った。つまり嘲笑と侮蔑の対象となった。それを彼は絶望の状況として体験した。一〇~一二節はキルケゴール的絶望の状況である。すなわち生きる希望と意志が完全に捨て去られることによって彼は自己のアイデンテティーに対する深い自覚を見い出す」(クレメンツ「エレミア書注解」佐々木哲夫訳)。