建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

旧約聖書における絶望と希望(七) 第二イザヤにおける希望-1

2001講壇(2001/6/17~2002/2/3)

旧約聖書における絶望と希望(七) 第二イザヤにおける希望-1

 第二イザヤとは、イザヤ書四〇~五五章を書いた無名の預言者で、通常第二イザヤと呼ばれている。彼は(第一)イザヤよりもほぼ一五〇年後、かつバビロニアの捕囚の地で活動をした預言者エゼキエルのほぼ二〇年後、前五五〇~五三八年ごろバビロニアの捕囚の地で活動した。
 バビロニア帝国をめぐる政治的な情勢は大きな転回点を迎えていた。ネブガドネザル王の死後(前五六二年)、バビロニアは急速に衰えた。かわって台頭してきたのがペルシャのクロス王である。クロスはメデア(北部メソポタミヤの王国)を征服し(前五五〇年ころ)、次にリュデア(トルコにあった王国、その最後の王クロイソスについて、ヘロドトスの「歴史」が詳細に伝えている。クロスとクロイソスのやりとりも言及されている)をも征服した(前五三九)。
 第二イザヤの預言活動はクロス王の一連の征服事業と結びついている。バビロニアの捕囚の民は、クロス王によって祖国への帰還を許され、かつエルサレム神殿の再建の命令を受けた(前五三八年、エズラ書一~二章)。六〇年にわたるバビロン捕囚が終ることになったのだ。第ニイザヤの希望として、クロスのテーマを取り上げたい。

クロスのテーマ
 捕囚はすでに四〇数年も続いていた。かつてエレミヤは「あなたがたの子孫には希望がある」と語ったが(エレミヤ三一:一七)、父母たちはその地で死んで、時代はその息子娘、孫たちの代に移っていた。捕囚の人々の苦しみ、あがき、うめきはいくつかの箇所にしるされている。
 「イスラエルよ、なにゆえあなたは言うのか
  わが道はヤハウエの前に隠され、
  わが訴えはわが神の前を過ぎ去る、と」(イザヤ四〇:二七)。
 「しかしシオン(イスラエルの捕囚の民)は言った、
  ヤハウエは私を捨てた、
  ヤハウエは私を忘れられたのだ、と」(四九:一四)。
 このような神のみ手がわからなくなったとの苦悩とは別に、もう一つの疑問、葛藤が人々の間に拡がった。「結局のところ、イスラエルの神ヤハウエよりも、バビロニアの神々のほうがはるかに力があるのではないか」という疑問である。「第二イザヤは、いったい誰が世界史を支配しているのか、という問いをきわめて鋭く提出した。そして彼の答え方はまったく驚くに値するもので《未来のことを前もって語らせる存在が世界史の支配者である》と言ったのだ」(ラート「旧約聖書神学」第二巻)。
 第二イザヤはバビロンの神々とイスラエルの神とを対比させて、こう語る、
 「ヤハウエは言われる、
  あなたがた(バビロンの神々)は訴えを出せ、
  あなたの証拠を出せ、
  進み出て、起ころうとすることを告げよ。
  《先のこと》が何であったかを告げよ。
  そうすれば、われわれはそれに心をとめ、
  注目しよう。
  《来たるべきこと》をわれわれに聞かせよ
  《その後に来たるべきこと》を告げよ。
  そうすれば、あなたがたが神々であること
  を認めよう」(四一:二一~ニ二)。
 ここでは法廷における、何が真実であるかをめぐる訴訟の語り口で、バビロンの神々に対して、イスラエルの神ヤハウエが論争を挑んでいる。「先のこと-来たるべきこと」の対比は、国際政治的な文脈でペルシャの王クロスによる征服事件と関して語られている。その場合「先のこと」はクロスのリュデア征服を(前五四七)、「来たるべきこと」はクロスによるバビロン征服を(実現は前五三七)を指している。そして第二イザヤがこの預言をしたのは、この事件の間の時期であった(前五四七~五三七)。ここでは「来たるべきことをわれわれに告げよ」つまり未来の事件を前もって告げる者、予告能力をもつ者こそ、世界史の真の支配者、神である、またイスラエルの神ヤハウエがバビロンの神々に対して圧倒的に優越しているのもこの点である、と述べられている。
 「見よ、《先のこと》はすでに起こった。
  《新しいこと》を私は告げる。
  それが出現する前に、
  私はあなたがたに聞かせよう」(四二:九)。
 ここの「新しいこと」は、すでに言及した「来たるべきこと」と同じで、バビロン征服を指しているが、この時点ではいまだ実現されていない。 続