建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

旧約聖書における絶望と希望(八) 詩篇

2001講壇(2001/6/17~2002/2/3)

旧約聖書における絶望と希望(八) 詩篇

 詩篇イスラエルにおける礼拝の中で聖歌隊や会衆よって歌われた讚美歌集で一五〇篇からなる。古いものではダビデの時代(前一〇〇〇年ころ)にさかのぼるものがあり、半数以上は捕囚期(前五九七~五三七)以前に成立し、他方マカベア時代(前一六〇年ころ)の新しいものも含まれている。
 詩篇における希望の最大の特徴は、希望に関する用語が多数出てくる点である。「ヤハウエに希望をいだく・キーヴァー」「ヤハウエへの希望・ティクヴァー」は、旧約全体で三〇回(ヤハウエに関連しないものを含めると、八〇回)のうち、詩篇だけで一五回用いられている。預言者全体での一三回よりも多い。「ヤハウエを待ち望む・イッヘール」「ヤハウエへの待望・トヘレト」は、旧約全体で二九回(ヤハウエに関連しないものを含めると四八)うち、詩篇には二四回出てきている。預言者全体でも四回しか出てこないので注目に値する(クラウス・ヴェスタマン「旧約聖書における希望」)。

三七篇
  「ヤハウエは苦境にある時の《避け所》である。
   ヤハウエは正しい人々を助け、彼らを救い出される。
   彼らはヤハウエを《避け所とする》」(詩三七:三九~四〇、ワイザー訳、以下同じ)。
 七〇人訳(ギリシャ語訳)は、「避け所とする・ハーサー」を「エルピゼイン・希望をいだく」と翻訳し、全体で「彼らは主に希望をいだく」と訳した。
 七〇人訳が同じように「避け所とする」を「希望をいだく」と翻訳した箇所は他に次のものがある。「あなたの翼の陰に私は《希望をおきます》」(詩五七:一、六一:四、九一:四)、「わが神、主よ、私はあなたに《望みをいだきます》」(七:一)、「あなたに《望みをおく者》を救われる方よ」(一七:八)など。
 また名詞形「避け所・マヘセー」を七〇人訳は「エルピス・希望」と訳している。「ヤハウエは彼の《避け所》」(一四:六)を「主は彼の《希望》である」。他に「神はわが助けの岩《わが望み》」(六二:七)、「私は主なる神を《わが望み》とします」(七三:二八)など。
 他方ルター訳は「避け所とする」を「信頼する、依り頼む・frauen」と翻訳している。
 重要なのは、七〇人訳が「神を避け所とする」を「神に希望をいだく」と翻訳したことの意味である。七〇人訳は「神を避け所とすること、神に信頼すること(ルター訳)」、そこに希望があるとみなしたのだ(ツィンメリ)。
 詩篇には「嘆きの歌」に属すグループがある。個人がはっきり希望を表明する例は、この嘆きの歌のグループにもっとも多く出てくる。その理由は、嘆きの歌の状況設定となっている。《苦境にある人々》は、平穏で満ち足りた人間たちよりも、はるかに鋭い形で、現在の自分たちの苦境が自分の敗北、終りを意味しているのか、それとも自分にはまだ未来が残されているのか、という問いかけが起こってくるからである(ヴォルフ、ツィンメリ)。

六九篇
 ここでは神の家への熱心によって(九節)、家族からのけ者とされ、神をそしる者からも嘲笑された人が登場する。
 「私は叫びによって疲れ、わが喉(のど)はしわがれた。
  私の目はわが神を(待ち望んで)衰えた」(六九:三)
 ここではまことに激しい待望への悶えが歌われている。この歌い手・詩人にとって苦悩の深さは、自分を慰めてくれる人が見い出せない点にもある(六九:二〇)。
 「そしりが私の心を砕き、私は床に伏した。私は同情を望んだ、無駄であった。慰める者を望んだ  が、一人も見い出せなかった」
 苦しむ者にとっては、神への希望と並行して《真に慰めを与えてくれる人間の存在》も支え慰めの一側面となることをここでは述べている。この苦悩する歌い手は《どのようにして自分の未来を見い出したのか》。ここで歌い手はイスラエルの《神讃美の伝統》に依拠した。今や歌い手は嘆きにかわって、突如として神への讃美の声をあげる。
 「歌をもって私は神のみ名をほめ、感謝の歌をもって彼をあがめる。
  謙遜な者はこれを見て喜ぶ。
  神を求める者よ、あなたがたの心を生き返らせよ。
  ヤハウエは貧しい者に聞き、
  その囚われ人を軽しめられないからだ」(六九:三〇~三三)。
 「希望をいだくためには、希望について学ばなければならない」(ブロッホ「希望の原理」)という言葉が想起される。ラートはこう解釈している、
 「嘆きの歌における《気分の急転》、祈り手(歌い手)が受け取った神の約束に帰すべきである。…彼は神に堅くとどまり、神に希望をおくことをすでに祭儀から教えられたのだ」(「旧約聖書神学」第一巻)。
 歌い手は神讚美の伝統に教えられて実際に《讃美の歌を歌うことで》苦境にあえぐ自分の実存にある種の変化・変容をとげて、自分を「謙遜な者、貧しい者、囚われ人」に同一化していく。この同一化をとおして「自分の心を生き返らせて」、「自分にはなお未来がある」ことを知るようになる。「神を待ち望む」(四節)と「神を求める者」(三二節)の並行に着目すれば、この「心の生き返り」すなわち「自分の未来」は、神を待ち望む者に与えれることが明らかとなる。
 四二~四三篇には「神を待ち望め」という自己への勧告が繰り返して出てくる。この歌はエルサレム神殿から遠く隔たった外国に住んでいる「ディアスポラの(散らされた)ユダヤ人」のテーマを問題としている。歌い手はその地で異邦人によって敵対的な行為を加えられ、再びエルサレム神殿でこぞって礼拝することを切に願っていた。歌い手は三回にわたって自己への勧告をしている。
 「わが魂よ、なにゆえ意気消沈するのか、わがうちにうめくのか。
  神を待て。わが顔の助け、わが神に
  なおも信仰告白することもあろうから」(四二:五、一一、四三:五)。
 ここでは神に信仰を告白する日がやがてくることを根拠にして、神を待ち望めとの自己勧告がなされる。この待望の形は詩篇における特徴的なもので、歌い手の待望は、自分の患難が取り除かれることにも、平穏な生活を獲得することにも、向けられてはいない。むしろいつの日かエルサレム神殿に巡礼していって、会衆のうちでもう一度神を讃美し、信仰を告白することに向けられている(四二:二「いつ私は行って神のみ顔をみるこができるだろうか」)。この待望が実現するとの確信はどこからくるのかは、はっきりとは語られていないが、この人物が《かつて体験した神殿での礼拝の思い出》が作用していることは明らかだ。「かつて私は、気高い仲間と神の家に至り、多くの人々の中で、喜びと感謝の声をあげた」(四二:四)。すなわち過去の恵みの体験の想起が、未来における希望の根拠、保証となっている。これは《いかにして希望をいだく》のポイントとして重要である。