建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

旧約聖書における絶望と希望(九) ヨブ記ー2

2001講壇(2001/6/17~2002/2/3)

旧約聖書における絶望と希望(九)

ヨブ記における希望ー2
 他方、詩篇におけるような方向「私は耐え忍んで神を待ち望んだ」(四〇:一、三七:七)におけるような忍耐、への徹底した批判的な態度となっている。
 「私の終りがどのようなものなので、私はなお耐えなければならないのか」(六:一一)。 
 ヨブは、現在の生の享受や忍耐しつつ待つこととは別の、それ以上の希望の形、未来を情熱的に熱望する。
 この熱望の背後にあるのは、創造者なる神が被造物なる人問といまなお関わりを持とうとなされているとの、ヨブの認識である。
 ヨブの以下の五つの希望についての弁論は、この視点によって理解可能になる。
 第一に、ヨブの絶望的な発言。
 「私はわが肉をわが歯でかませ、
  わが生命をわが手の中に置く。
  見よ、神は私を殺す。
  私はそれを《待たない》。
  ただ私はわが道を彼の前にで立証したい。
  神を知らない者は神の前にでることはできないからだ」(一三:一四一一六)。
 この箇所で「わが生命をわが手の中に置く」は、生命を賭けた冒険をするとの意味である。次に「私は待たない」(一五節後半)は、《別の読み方》があって少し厄介である。文語訳は「彼、われを殺すとも、われは彼に依り頼まん」。古くはウルガタ(五世紀ラテン語訳)が「神が私を殺されてもなお、私は神に希望を置こう」。ツンメリや関根正雄、ホルスト訳も同じで「私は彼を待つ」。他方チューリッヒ訳聖書は「私はそれを辛抱しない」。ブッデの一註解は「私は何の望みをもたない」。ヘルシャー訳は「私は何の望みもない」。ルター、ワイザーも同じ。シュトイエルナーゲル訳「私には全く希望がない」(クラウス・ヴェスタマン「旧約聖書における希望」)。ヴェスタマン自身の訳「見よ、神は私を殺す。私はそれを待たない」。
 ヨブは未来に対する絶望的な突進の中で、自分を死に脅かされる状況に置き、神に挑戦する。もしヨブに死がやってくるなら(一五節)ヨブの待望、希望には救いの微光があるのだろうか。
 第二の弁論では、驚くべきことに、舞台は人間の地上の世界から「陰府」(よみ、死後の世界)に移される。
 「どうかあなたが私を陰府に隠し
  あなたの怒りがおさまるまで 私をかくまい、私のために時を定めて
  私を覚えてください。
  人は死んでも再び生きるのだろうか。
  私は服役のすべての日を待つ。わが解放の来るまで。
  あなたが呼ばわれば私はあなたに答よう。
  あなたはみ手の業を熱望される」(一四:一三~一五)。
 ヨブは苦悩の中で陰府、死者の世界の中に座している。地上では自分に対する神の怒りの追求がやまないので(一七:九)、陰府を自分の隠れ家とした。神のみ手は陰府にまでは及ばないと考えたからだ(詩八八:一二「あなたの義は忘れの国(陰府)で知られるでしょうか」)。ヨブが求めているのは、自分の苦境からの解放ではない。むしろ神に完全に捨てられる場、陰府で、神の怒りがしずまるまで、神が自分を守ってくれるようにとの不可能な事柄を願っている。そしてやがて神の怒りがしずまった後、神が「み手の業」被造物なるヨブを待ちあぐみ、自分を神のもとに呼びもどすにちがいない、との大胆な考えを語っている。これがヨブにとっての新しい未来と希望であった。
 
ヨブによる希望についての第三の弁論
 「おお大地よ、おまえは私の血をおおってくれるな。
  わが叫びにけして休息の場を見い出すな
  見よ、今すでに天にわが証人があり、わが宣誓弁護者は高き所にある。
  その者こそわがパートナーとなり、私を執り成す者である。
  わが目は神に向って眠ることなく見開かれている。
  彼は神との人の論争を調整してくれる。
  人間とパートナーとの間にあることをも」(一六:一八~二一)
 ここには希望という用語は出てきていないが、この箇所の背後には友人たちが「秩序」という冷たい考えに基づいて、神の前でヨブの生きる権利を否定しようとした論議が偽りであるとの、ヨブの見解がある。そしてヨブは友人たちが自分に向って頑なに主張した、「敬虔な者にのみ希望を与える神」に逆らって、神に対して自分の権利、正義が不当に侵害された者の叫びを発している。
 「大地よ、私の血をおおってくれるな」(ー八節)は、カインに殺された「アベルの血の叫び」を想起させるが(創世記四:一〇、ヘブル一二:二四)、これは不当に侵害された自分の権利の回復を求める法的正義の遂行を求める叫びである。ヨブは自分が叫ぶのをやめることのないように願った。この叫びをやめたら、正義への問いがなくなってしまうからだ。しかし法廷で真実を明らかにするためには、訴追された者の弁論では十分ではない。その弁論の真実さを証明する証拠、証人が不可欠となる。ここでの「証人」「わが保証となる者・宣誓弁護者」とは、自分の主張、正義を承認してくれるとヨブが確信している「神」、被造物を再び顧みる創造者、神である。この証人となられる神は、ヨブの「保証となる者」であるが、それはまぎれもなく他なる神、神の隠された、別の姿である。この「他なる神」が今ヨブに「敵対し訴追する神」にヨブのために弁護してくれる。他なる神は今地上にはおられないで「天、高い所」、超越的な世界におられる。ヨブはかつては地上ではない陰府の世界を避け所としようとしたが(一四:一三)、ここでは救いを天上の世界に求める。ヨブは「希望の翼をかりて」(詩一三九:九「曙の翼」はクラウスによれば「希望の翼」と訳せる)、天上にいます希望の神に舞い上がったのだ。

第四の弁論
「私は何に希望をいだくのか。もし私が陰府をわが家とし
 暗聞にわが寝床をのべ
 墓に向って、あなたはわが父と呼び
 うじに向って あなたはわが母 わが姉妹と言うならば
 私にとってどこに《希望》がなおも存在するのであろうか
 これは陰府の関門に下っていけ」(一七:一三~一六、ホルスト訳)
 塵(ちり)の上にも《休息がある》」(浅野訳)。
 用語的には「望む・キーヴァー」と「希望・ティクヴァー」が二回出てくる。しかしこの箇所でヨブは「希望について否定的に言及した」との解釈がほどんとである。ツインメリ、ヴォシュッツはこの箇所を取り上げていない。ホルストの註解は否定的な言及とみる。「ここでは、死の現実を前にしたヨブの希望と幸せとの可能性がどこに認められるか、という問いが取り上げられている。陰府へと下る道は、けして希望をともなうものではないし、幸せは『生ける者の国に』しか見い出せない」(詩二七:一三)。「幸せ」については、一五節後半「誰がわ希望を…」の希望を、ギリシャ語訳に従って、多くの訳が「幸せ」と訳す。 続