建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

旧約聖書における絶望と希望(九)ヨブ記ー4

2001講壇(2001/6/17~2002/2/3)

旧約聖書における絶望と希望(九)ヨブ記ー4
 ゴーエールはヨブの「味方」(一九:二七)として出現される。すなわちひとり目の弁護者が事態を処理できない状況で法廷に登場する法的な代理者である。ヨブにおいては現在、友人たちが主張するような「守護を与えるという伝承の神と、彼の体験した破壊の神との鋭い分離、両者の併存がある。…そして保証する者(一六:一九)、贖う者(一九:二五)である神が敵なる神に対して勝利を得る」(フォン・ラート)。これがこの箇所でのヨブの希望の形である。この希望の形は友人たちの主張する人間が自分の行為として実行できる希望(自分で持つことができる希望)でも、自分の敬虔や忍耐などの功績に対する見返りでもない。
 マルクス主義哲学者エルンスト・ブロッホは「ゴーエール」のもつ本来の意味、殺害された者の権利回復をなす者、すなわち「血の復讐者」の意味合いを欠落させたラテン語訳、ルター訳などの「贖う者」という訳語に強く反対してしている。そしてブロッホ自身はこう翻訳している「私は知る、私の《復讐者》は生きており最後の者として塵の上に出現するであろう」(二五節)(「キリスト教の中の無神論」竹内高尾訳)。私たちは、ストラウス訳の「わが義を守る者」はなかなか適訳で、失われ奪われたヨブの義を回復の意味合いをこめて「わが義を回復する者」との訳語がよいと考える。ブロッホは、また地上で奪われたその者の義・正義の回復、その者の奪われた生命の回復についても語っている。「不死性への衝動は、長命や地上での安らかな生活への古い願望から来たのではなく、むしろヨブと預言者たちから《義への渇望》から来たのである」(「希望の原理」後述)。
 このヨブのゴーエール、血の復讐者、ここでの「贖う者」は、神以外のどこにも存在しない。ヨブは自分の死んだ後に、失われた自分の権利、義しさのために立ち上がりたもうゴーエールがいますのを確信するに至ったのだ。
 「神はあらゆる生命の所有者である。何らかの暴力行為によって生命を脅かされる場合、それは神の直接の利害にかかわることである。そのことをヨブは知つており、厳粛に神に向って、神に対して訴えるのである」(フォン・ラート)。
 「ヨブ記の驚くべき点は、…神の怒りの炎の中で、耐え抜くという事実にある。神が敵として扱いたもうヨブは、その闇ともっとも深い、深淵のただ中にあって、動揺することなく、何か一段上の法廷や彼の友人たちの語る神に控訴するのではなくて、自分を打ちのめすこの神御自身に控訴する。ヨブは、自分を失望させ絶望に陥れる神に信頼し、自分の主張をやめることなしに、自分の希望を告白し、自分を断罪する方を弁護者とする」(ロラン・ド・ピュリ「反乱の人間ーヨブ」、バルト「ヨブ」井上良雄訳から引用)。
 「ヨブは、神の支配の暗黒が彼にもっとも鋭い仕方で出会うところに、近づきつつある死と陰府の中での彼の存在の闇に、目を注いでいる。《そこでこそ》彼を守りたもう神に接し、そこでこそそのゴーエール(弁護者・復讐者・贖う者)としての神を自分の目で認めるのであス」(バルト、前掲書)。
 一九:二六でヨブは「私は《肉を離れて、体をむきだしで》神をみるであろう」と語るが、これは復活や永遠の生命を考えている、と誤解してはならない。むしろここでもヨブは一七:一三以下と同様に、陰府での出来事として「肉を離れて、体をむきだしで」を考えている。贖い主の贖ないが起こるのは陰府においてである。ヨブの贖い主は陰府の「塵の上に立つであろう」。したがって「ヨブは問題を死後の解決に委ねたことになる」(関根、注解)。
 しかもヨブがそう決心したのは今ここでである。ヨブが絶望のただ中にあって、自分の失われた希望について文句を言いながらも、神ご自身にはなおも隠された可能性が残されていると告白したのは、今においてだからである(ツインメリ)。神は人間の創造者として失われたその人間の権利回復を実現される、法的なゴーエールすなわち「最も近い親族」(ルツ二:二〇)、ヨブの「味方」(一九:二七)として出現される。すなわちひとり目の弁護者が事態を処理できない状況で法廷に登場する法的な代理者である。ヨブにおいては現在、友人たちが主張するような「守護を与えるという伝承の神と、彼の体験した破壊の神との鋭い分離、両者の併存がある。…そして保証する者(一六:一九)、贖う者(一九:二五)である神が、敵なる神に対して勝利を得る」(フォン・ラート)。これがこの箇所でのヨブの希望の形である。この希望の形は友人たちの主張する人間が自分の行為として実行できる希望(自分で持つことができる希望)でも、自分の敬虔や忍耐などの功績に対する見返りとして要求できる希望でもなく、さらに神による秩序の保持という見解によって理解される希望の形でもない。むしろ神が神でありたもう存在として被造物への約束を破ることができないゆえに、神にのみ残されている希望として理解されるものである。
 「ここに旧約聖書の希望の決定的な特質が見い出される。旧約聖書によれば、希望は神がその活動、賜物、約束によって唯一の主とされ、他方人間が《神の自由な賜物として》のみ《未来に与る》、それを唯一の場としている。したがって人間の希望が中立的な世界観やある世界観によって支えられる(たとえそれがどれほど敬虔なものであろうと)、究極的には単に人間の態度に依拠するにすぎない場合には、その希望は不安定な土台の上に築かれたものであり、やがて危機に直面すれば、砂の上に建てられた家のように、打ち砕かれてしまうであろう」(ツインメリ)。

ヨブの最後の神への挑戦
 「全能者よ、私に答よ。わが論敵の書いた訴状、私はそれをわが肩に背負い、
  君侯たる者のように、彼に近づこう」(三一:三五~三七、関根訳)。
 ヨブの「神に近づく」との行動は、ヨブをして聖書的プロメテウスたらしめる。なぜなら神への接近は、祭儀の領域での大祭司による至聖所への接近を別にすれば、モーセやメシアにのみ許されていた、神聖冒瀆だったからだ。「いったい誰が自分の生命を賭して、私に近づこうとしたか、とヤハウエは言われる」(エレミヤ三〇:二一)。ここでのヨブは「自分の生命を賭して神に近づこうとした」空前絶後の存在である。ヨブのこの言葉に打たれない者がいったいいるであろうか。

神の回答
 「ヤハウエは嵐の中でヨブに答えて言われた。
  無知の演説をとおして、計画を暗くするのはいったい誰か。
  あなたは男らしく腰に帯せよ。
  私があなたに質問するから、私に答えなさい」(三八:一~三。シュトラウス訳)
 神がその弁論でとり上げられたのは(三八~四一章)、出エジプトやバビロン捕囚からの解放といった、イスラエルの救済史的出来事における神の業ではなかった。むしろ神の創造された世界、地の基い、海、風、天空の星座、プレアデス、オリオン、獅子、驚、など七〇もの被造物に言及なされた。バルトは、神からのヨブへの弁論・問いかけを「博物学に基づく問いかけ」と呼んでいる。この神からのヨブへの問いかけは、少し「肩すかし」のように映る。 続