建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

イエスの十字架と絶望Ⅱ(三)

2002講壇(2002/2/10~2002/4/28)

エスの十字架と絶望(三)
 さて「イエスがなぜ十字架につけられたか」については、二つの把握の仕方がある。一つは生前のイエスの活動の帰結である「歴史的な(geschichtlich)イエスの訴訟」として、イエスの十字架の死はユダヤ教の律法から見ると「瀆神者」であったとみなされたゆえであった。ローマ帝国によるユダヤ支配との文脈では「反乱指導者」(十字架刑はローマの逃亡奴隷あるいは国家に対する反乱の罪人への処刑方法)。神との関わりでは「神に見捨てたれた者」と解釈できる(モルトマン「十字架につけられた神」、この文献の特に「十字架に至るイエスの道」は原文で読んだ時、感動を覚えた)。もう一つはモルトマンのいう「終末論的にみたイエスの訴訟」すなわち復活の光に照らしてみた「神の定めによる苦難と死」「罪の贖いの死」としてのイエスの十字架の把握である。注目すべきは、このうちの「神に見捨てられた者としてのイエスの死」というポイントである。
 これまでイエスの十字架をユダヤ教当局との衝突、ローマ帝国の総督による十字架刑の視点、いわば宗教的政治的文脈でのみ十字架を理解する立場、あるいは、イエスの十字架の死が《その同時点で》罪の贖いであったとみる解釈は、いともたやすく十字架についての神学的把握である「神に見捨てられた方イエス」のポイントを見過してきた。そして弟子集団の絶望の体験も軽くみられた(ルカ伝に依拠した、カンペンハウゼン「空虚な墓」など)。
 モルトマンが指摘しているように、四つの福音書のうちでルカ伝ではイエスの十字架上の最後の言葉は「私の霊をあなたに委ねます」(ルカ二三:四六)とあって、これはユダヤ教の義人が死に臨んだ折りの敬虔な祈りの言葉であろう(詩篇三一:五)、またステパノの殉教における言葉でもあった(使徒行伝七:五九、ステパノの最後の言葉が逆にイエスの最後の言葉に移された可能性があるとシュナイダーの註解はいう)。ヨハネ伝ではイエスの十字架における最後の言葉は「すべてが成就した」(一九:三〇)となっていて、十字架の死はすでにイエスのこれまでの活動の完成とされている。ルカとヨハネとにおいては十字架はそれなりに「完成した出来事」美しい死であった。したがって神に見捨てられた者としてのイエスの十字架の視点はこの両福音書には存在しない。それゆえイエスに対する弟子たちのつまずき、絶望も強烈なものではない。これに対して、マルコ、マタイではイエスは十字架上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫んで死んだ、とある(マルコ一五:三四、マタイ二七:四六)「もしこの恐ろしい言葉が実際上イエスの死の叫びにおいて聞かれなかったとしたら、『あなたはどうして私をお見捨てになったのですか』という言葉はキリスト教界にはほどんと根づくことはできなかったであろう。ずっと後になってへブル書はこの思い出に固執している『キリストは《神から遠く離れて[ギリシャ語、コーリス・テウ]》私たちすべてのために死を味わわれた』と(二:九)。
 ここの読み方は「カリス・テウー=神の恵みで」とハルナックらの「コーリス・テウー=神から離れて」の二つがあり、ミヘルの註解も二つの読み方を並記した。モルトマンはハルナックらの読み方に従った」(モルトマン「イエス・キリストの道」)。
 この問いに答が出されない限り、十字架は未だ《未解決の出来事》のままである。十字架は神による判決、復活の光から把握しなおすことを要求しているのである。

エスの十字架上の叫びの解釈
 イエスの十字架におけるあの叫びは、周知のように詩篇二二:一にある言葉であるが、このイエスの叫びを単に詩篇二二篇から解釈することはできない。詩篇二二篇においてこの叫びをあげるのは、神の前の義人であり、この義人が「わが神」と呼びかけているはイスラエルの契約の神であるが、イエスの場合の「わが神」は、慈悲深く近づきたもう神である。また「わが」神は詩篇では神とイスラエルとの契約を前提にし、特に二三節では「主を讚美せよ」との急激な気分の転回をとげているが、イエスにおいては「わが」はそのような契約を前提にせず、後半における神讚美への急転などは決して起こらない。むしろ神の恵み深い到来を告げ、神に遣わされたイエスの独自性、イエスのみ子としての父性への呼称、父なる神との父子的関係をもつ御子の呼びかける「わが」を、父の慈悲深い接近、到来の告知を促した神への呼びかけを、意味する。
 メシアであるイエスの苦難と十字架の死を《美しい、気高い死》《その時点における贖罪の死であった》として理解することは、いくつかの問題を惹き起こす。
 第一に、「十字架のつまずき」(ガラテヤ五:一一)、「十字架につけられたキリストはユダヤ人にはつまずきである」(第一コリント一:二三)が無視される点。パウロは十字架のイエスを「キリストは私たちのために呪いとなりたもうた」と述べ、「木に架けられた者はすべて神から呪われる」(申命記二一:二三)を引用した(ガラテヤ三:一三)。「あなたがたが木に架けて殺したイエス」(使徒行伝五:三〇、一〇:四〇、協会訳は「木」を「十字架」と意訳してポイントを弱めている)、「キリストは木に架けられて」(第一ペテロ二:二四)などはみな「呪われたイエスの死」のイメージを表現している。ヘブル書もイエスの十字架が「神から見捨てられたもの」であることを強調する「イエスは《神から遠く離れて》すべての人のために死を味わわれた」(へブル二:九)、「キリストの祈りと願いとは《聞き入れられなかった》」(へブル五:七)。「イエスは十字架を耐え忍ばれ<それ>を恥辱と思わないで」(同一二:二、ここでは十字架は恥辱とされている)。このように十字架におけるイエスの死については、マルコ、マタイ以外の文書も神から見捨てられた者の死との強烈な表現をしており、これを無視することはゆるされない。
 第二に問題となるのは、イエスの十字架の死は復活後初めて「救いの出来事」として把握された(啓示された)のであって、十字架の「時点」では「挫折とつまずきの事件」としかみえなかった点である。イエスの美しい死(贖罪死)によっては弟子たちの逃亡、彼らの信仰の喪失、絶望は起こりえないだろう。イエスの死に対する弟子たちのつまずき、絶望という現実は弱められたり、度外視されてはならない。イエスの死は弟子たちの絶望を惹き起こしたばかりでなく、やがてはその絶望を包み込み癒すものであったのではないか。
 第三に、イエスのあの叫びは信仰的に「底知れぬ神の愛の深さ」を示しているとのポイントである。
 イエスのあの叫びをきちんと把握しないと、十字架における神のアガペー(愛)をも把握しそこなう。それに、十字架という「ユダヤ教当局の判決、ピラトによる判決への、神による原判決廃棄」すなわちイエスの復活をも十分把握することはできなくなる。
 第四に、イエスが絶望なさる、というのは冒瀆だと考える人もいようが、絶望したことのある信仰者には、ゲッセマネゴルゴタにおけるイエスの絶望の姿は、近親感のあるものであるばかりか、イザヤ六一:一の「心の砕かれた者の癒し」の内実を構成する、と考えられる。イエスのあの叫びには古代ギリシャのテオグニスや旧約聖書のエレミヤ、ヨブ記詩篇における神義論の問題が提起されている。イエスの十字架の叫びは《神義論の究極的な形、さらに終結点》である。