建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

イエスの十字架と絶望Ⅱ(四)イエスの十字架の叫び-1

2002講壇(2002/2/10~2002/4/28)

エスの十字架と絶望(四)
 
 イエスの十字架の叫びについての解釈を取り上げたい。
 まず、イエスのあの叫びを絶望そのものとみる解釈、「キリストは、二つの重要な問題、二つとも反抗の問題なのであるが、悪と死の問題を解決するために来られた。彼の解決は二つの問題を自ら引き受けることにあった。神人もまた苦しみを受け、それを忍ばれた。惡も死と同様に完全には彼にその責めを帰すことができない。なぜなら彼もまた引き裂かれて死んだからである。ゴルゴダの夜はまさしくそのことのために人間の歴史に多くの意味をもっている。なぜならその暗闇の中で彼は従来の持っていた特権を放棄して、その終りまですべての絶望に取り囲まれて死の不安を体験されたからである。これが『ラマ、サバクタニ(どうして私を見捨てられたのですか)』との苦悶におけるぞっとするような絶望の説明である。もしキリストが永遠の希望に支えられていたとしたら、苦悶はずっと軽かったにちがいない。神が人間になるためには彼は絶望しなければならなかったのだ」(カミユ「反抗的人間」佐藤朔訳)。
 カミユは、イエスの味わった「終りに至るまですべての絶望に取り囲まれて死の不安を体験された」点、「ゴルゴダの夜」が人間の歴史にとってもつ多くの意味を把握したが、十字架のイエスのあの叫びを「ぞっとする絶望」の表現とのみ理解し、それのもつ「神学的次元」(さしあたり神に見捨てられたとの解釈、後述)には考えが及ばなかった。
 第二に、カミユとは違って、イエスの叫びを信仰者の絶望「絶望と祈りとの逆説」としてみる解釈がある。これはイエスが単純に「絶望して死んだ」との解釈ではなく、むしろ「絶望しながらも神に身を委ねる」「絶望しながら神に祈る」といった逆説的解釈である。
 「この世の主、救い主は、とりもなおさず十字架で処刑され神に見捨てられたかたである。…十字架でのイエスの最後の言葉は、信仰的な信仰者の表現として理解することはできない。…神が姿を隠されたこと、イエスが神から見捨てられたことの謎は《わが神、わが神》とのはっきりした言葉によって解け始めたのではなく、むしろますます逆説が深くなっている。十字架のイエスのあの言葉は単なる絶望、あるいは全く無意味なものであったのではない。というのはイエスは絶望にではなく、神の腕に身を投じていたからである。しかもまさに絶望しつつ神の腕に身を投ぜざるをえなかったのだ」(シュラーゲ、前掲論文)。
 イエスの叫び「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」は、むろん人間的絶望一般を表現したものではなく、神を信じる者の絶望、神に見捨てられたことへの嘆きを表現している。 「この言葉は底の知しれない絶望について語っている。そしてまさしく神に語りかけたものでもある。死の瞬間には砕くことのできないこの支えも砕け、神によるこの世も空しいものとなる。…」 
 「しかしこの絶望の叫びは同時に詩篇の言葉にある《わが神への祈り》でもある。この絶望の表明と祈りという二つは、さらに別のモチーフを開示している。神への近かさ、いわば神を所有することが、このように深い絶望の言葉によって表現されたことは、これまで一度もなかった」(ローマイヤー、マルコ伝一註解)。
 ローマイヤーはイエスのこの叫びに含まれた「絶望と祈りとのアンヴィバレンツ・逆説的共存」をきちんと把握した。
 ローマイヤーとシュラーゲの解釈では、イエスがあの叫びで一方で神に身を委ねたにせよ、他方では絶望しておられたと解釈した点が印象的である。ゲッセマネにおけるイエスの絶望の告白は十字架のあの叫びにおいて極点に達したといえる。

ハインリッレ・フォーゲルの解釈
 「この世で最も望みなき場所はどこであろうか。病院の重患ベッドを考えるべきか、あるいは強制収容所の拷問の柱、ガス室、あるいは死刑囚の独房、あるいはヒロシマの無数の犠牲者を考えるべきであろうか。どこが最も深い絶望の場所なのか、私にはわからない。しかし事実、この世で最も望みなき場所は、決して神を見捨てたことのない人間が神ご自身によって見捨てられて処刑台に架けられたところである。この場所はイエスの十字架である。それはこの世のあらゆる神の蝕とはちがった神の蝕であり、イエスはこの蝕から『わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか』と叫び声を上げられた。人間の将来がこの場所ほど全く失われたと思える場所も出来事も決して存在しない。人間のいかなる言葉をもってしても叙述できない、いかなる知識によっても決して到達できない驚異すべきことは、まさしくこの場所で、人間に、将来が、永遠の将来が開かれたことにある。この人間イエスは、神のみ子であり、したがって神ご自身であるが、自ら私たちの隣人となられた。この方は、私たち人間が自己を理解するのとはちがって、全人類の問いかけに耳を傾ける方である。自己の宗教性の無数の道で私たちは神を探し求めたが、自分自身の似姿にいきついただけであった。しかしイエスは私たちを探し求めて、私たちが絶対もうだめだ、終りだ、というところで私たちを見い出してくださった。この方に対して神は、アーメン、しかりと言われて、この方を死からよみがえらせたもうた。しかしこの方は生と死とにおいて私たちと関わろうと欲しておられたのであるから、私たちも[生と死において]この方と関わっている。かくしてこの方は私たちのために神の将来に至るドアとなられた」(チェコの神学誌「旅人の交わり」一九五九。ゴルヴィッアー「曲がりくねった木ーまっすぐな歩み」より引用)。